「身を切る姿勢」は泥沼の道

 ここのところ、野田首相を筆頭に「増税の前に身を切る姿勢を」という主張が盛んであり、実際に議員定数や公務員の人件費などの削減が実行に移されようとしている。ここでも繰り返し述べてきたが、これは全面的に間違ったものである。議員定数や公務員の人員は、民意を政治的に代表する適切的な規模や、必要とされる行政事務の仕事量に応じて決められるべきであって、社会保障財源のための増税とはまったく関係のない問題である。

 むしろ、国民の生産と消費における社会保障の比重が高まることは、一般には民意の複雑化・多様化をもたらし、行政の国民の生活保障に対する役割が増えることであるから、増員の主張が起こるほうが自然である。メディアはよく「議論が尽くされていない」「説明が足りない」などと政権与党を批判するが、議員定数削減の是非については、議論や説明が不足しているという以前に全くなされていない状態である。

 そもそも、「増税の前に身を切る姿勢」は、肝心の税負担に対する国民の合意を得るどころか、その逆に働く可能性も高い。議員定数や公務員の削減は、「既得権」のためか使命感によるものかはともかく、それ自体大きな抵抗を呼ぶことは間違いなく、政治的にはどこかで「妥協」せざるを得ないだろう。そういう経過を見た国民世論がどう感じるかと言えば、「真面目に身を切ろうという姿勢がないじゃないか。これで増税なんてとんでもない」という不満を募らせることになることは確実であり、特に公務員組合の(自分の目から見ても不愉快な)抵抗に対する世論の反応を見ても明らかなように、「身を切る姿勢」は行政不信をさらに拡大させ、税負担への合意を一層困難にする可能性が高い。また、議員定数や公務員人件費の削減を実現したとしても、「政党交付金」や「天下り」など、さらに「身を切る」べきと思われる問題はいくらでもあるが、当然ながら野党やメディアがそれを取り上げて追及しないわけはなく、「身を切る姿勢」は単なる泥沼化の道に陥るだけである。

 それに、もし増税社会保障制度の機能強化を目的としているなら、税負担を政治指導者の「身を切る姿勢」との関係で語ることは、その目的を妨げるものでしかない。そもそも、国会議員や官僚やギリギリまで身を削って追い込まれた状態を前提として、はじめて国民が税負担に応じることができるという論理は、今の日本においては増税というのもが、国民全員が国の厳しい財政状況を真摯に受け止めて耐えて我慢することと、ほとんど同義になっていることを示すものである。そうでなければ、国会議員や官僚に対して「増税の前に身を切る姿勢」などを要求する意味がわからない。

 このように、自らの生活や人生をよりよくするための、政府に社会的な支援やサービスを要求するための根拠としての税負担ではなく、「財政危機」の中でみんなが我慢しているのだから「わがまま」は言えない、というネガティヴな同調圧力のなかで行われる税負担は、再分配・社会保障の機能強化へと道筋をつけるものとは決してならない。むしろそれは、増税社会保障費の抑制(高齢層向け支出を除く)と同時に進行するような方向に向かわせ、貧困者の生活を直撃し、経済に深刻な打撃を与えてしまうような、そういう最悪な形での増税策になってしまう危険性がある。

 与党の政策担当者が、目前の野党やメディア・世論の批判や反発への対応に忙殺され、その煩わしさからなんとか逃れたいという気持ちから、「増税の前に身を切る姿勢」という言葉でとにかくその場を黙らせたいというのは痛いほどよくわかるが、それはますます自らを深い泥沼に追い込むものでしかない。その上、脱デフレによる経済成長と税を通じた社会保障の機能強化の好循環をどう作り出すかという当たり前の話が、また「無駄遣い」批判の合唱にかき消されるという風景を生み出すだけで、政治家にとっても国民にとっても百害あって一利なしである。

 個人的には、「身を切る姿勢を」という言い方には、政治家や官僚に妙な善意や道徳性を期待しているようなものがあって、正直どこか気持ち悪いものがある。政治家や官僚が、みな突っ込みどころがないほど人格が高潔であるように見える状態があったとしたら、国家がカルト宗教化してしまったとしか言いようがないだろう。そもそも近代的な自由や民主主義というのは、政治指導者に対するそういう妙な期待をやめたところからはじまったはずである。

(追記)

 こういう現象を、「権威主義」とか「パターナリズム」といった言葉で解釈する誘惑に何度も駆られそうになったが、やはりそれは何も説明したことになっていないし、せいぜい自分が「権威主義者」ではないという無邪気な自己アピールにしかならない(実際自分が「権威主義者」ではないと言い切れる自信はない)ので、こういった言葉は慎重を期して使わなかった。

 やはり問題は、生活・経済上の利害関心や政策理念による政治の争点化が進まず、むしろ「改革へのやる気」「リーダーシップ」「既得権からの脱却」といった、抽象的な精神論が政治の対立軸になってしまったことに求める必要がある。有権者が経済利害や政策理念で支持すべき政治家や政党が決められなくなっているという状況が、政治家や官僚の指導力や道徳性の問題を必要以上に前面化させ、「増税の前に身を切る姿勢を」という世論を生み出しているわけである。これは個人的な印象だが、こうした世論の背後に、自民党長期安定政権時代へのノスタルジーを感じることがある。

 これについては、政治家はもちろんのこと、政治的争点を提示する能力を持っているはずのメディアや政治ジャーナリストたちにも責任がある。特に個人的に腹立たしいことは、90年代以来メディアの露出が頻繁で、少なからず現実の政治に大きな影響を与えてきたと思われる、功なり名なりを遂げてきた高齢世代のジャーナリストたちが、小沢一郎や鳩山元首相を「わかりやすい」と持ち上げてきた過去を何も反省することなく、民主党政権を一方的に批判し、「既得権」を歯切れよく攻撃するばかりの政治家を相変わらず持ち上げていることである。

国会議員定数削減 民意を削る愚策は許されない  愛媛新聞社ONLINE 社説 2012年01月24日(火)


 野田佳彦首相が国会議員の定数削減に並々ならぬ意欲をみせている。持論の消費税引き上げの前提条件として、まず政治家が範を示そうとの腹づもりだ。公務員給与削減と合わせて「身を削る改革」の最優位と位置づけている。
 各種世論調査をみても「増税の前に無駄の削減を」と考える意見が大勢のようだ。首相の思い通りに事が運べば、世は増税やむなしの流れに傾くかもしれない。
 だが、ひとたび政治的な条件設定がなされると、それが達成されるか、されないかに興味が移ってしまう。そもそも定数削減は増税の前提としてふさわしいのかどうかを置き去りにしてはなるまい。
 民主党の案が解せない。衆院小選挙区定数の「0増5減」と、比例代表定数を80削減する案では、大政党有利が目に見えている。1票の格差是正に伴う微調整と国会の合理化を、ないまぜにした議論はあまりにも粗雑すぎる。
 落ち目の政権は必ずといっていいほど定数削減を口にするものだ。これほど合法的に政敵を退場させられる手だてはない。失職を恐れる現職は政権や党に擦り寄る。政権党に不利な制度改正にならないよう工作もできる。真の目的は政権の求心力の回復であって無駄削減ではない。野田政権とて例外ではなかろう。
 定数削減は主権者である国民の代表機関が小さくなることを意味する。代表が少ないほど為政者は楽になる。政治家が身を削るどころか、民意を削る危うさが潜んでいる。
 地方選出議員を減らすなら地方の自治権拡大の議論が伴ってしかるべきだ。しかし現政権には、そんな分権的視点さえも欠落している。
 民主主義の根幹にかかわる問題は、行政改革と同列で語るものではない。これまでも小欄は、人口当たりの国会議員数を国際比較すると、むしろ日本は少ない部類に入ると指摘し、慎重で丁寧な議論が欠かせないと訴えてきた。
 お金がないときは、お金を節約するのが道理だろう。国会議員の給与に当たる歳費は年間2100万円に上り、世界最高水準といわれる。数々の特権を温存したままで議員の数を減らしていけばどうなるか。民主主義の体を借りた少数者による独裁だ。
 本気で身を削るというならば、議員歳費や政党助成金の減額を優先するべきである。だが、岡田克也副総理が歳費や助成金の削減に言及したとたん、民主党輿石東幹事長はそれをきっぱり否定した。やはり覚悟のほどは疑わしいと言わざるを得ない。
 自らの代表を減らすという明らかな不利益を、国民が支持してしまうのはなぜか。国会議員の多くが無駄と思われている現状にこそ危機感を持たなくてはならない。

「絆」の戦後史

 漢検今年の漢字として「絆」が選ばれた事に関して、どこかの新聞で、いま人と人との結びつきとして理解されている「絆」は昔は否定的な意味であったという記事を読んで、「へえ、そうなんだ」と思い、ではいつ頃から肯定的な意味に変わってここまで普及するようになったのか、ということが気になって国会議事録や朝日新聞の記事タイトルなどを検索してみた。単に暇な時に興味があって調べたというもので、特に言いたいことや結論があるというわけではない。

 確かに新聞や議事録などにおける1960年代頃までの用法を見ると、「絆創膏」「脚絆」(ゲートル)など以外には、身動きが取れない環境を指して、「羈絆(きはん)」などの意味で使われていることが多い。また、「封建的な絆」「悪弊のきずな」とか、束縛や癒着・結託といった明確に否定的が意味が込められることも少なくない。「絆を断ち切るべき」という表現も散見される。これは、家畜を繋ぎ止める綱という「絆」の原義を踏まえれば、自然な用法と言えるだろう。

 その一方で、「アジア諸国とのきずなをより強固なものに」など、外交問題の文脈では国と国との緊密な関係を指して「きずな」が肯定的に用いられていた。もともと国際政治的な制約条件を「羈絆」と表現することがよくあったので、そこから派生した用法であろう。今につながる「絆」の肯定的意味は、この外交問題における用法を起源にしていると理解することもできるが、使用される場面はごく限られており、一般の人には(意味はわかるとしても)それほど馴染みのある言葉ではなかった。そのことは、「絆」という(特に今年は嫌というほど目にした)字が当用漢字に入っていないことにも象徴されている。

 家族・友人・地域の「絆(きずな)」を肯定的な文脈で語るようになるのは、おそらく1980年代からであるが、「地域の絆」の重要性を再認識すべきであるとか、忘れかけていた「夫婦の絆」を思い出したとか、せいぜいその程度のものである。また「絆を断ち切りたい」など、依然として否定的な文脈でも用いられる言葉であり、頻出度も決して多いものではない。

 では、「絆」が大衆化された形で、特に日本社会の秩序規範として積極的に用いられるようになったのはいつごろなのか。それを知るために、朝日新聞の記事検索サービスを使って「きずな」「絆」が用いられているタイトル記事数を調べてみたが、案の定この10数年で急増している。戦後から1989年までの44年間で「きずな」「絆」が出てきたタイトル記事は159件だったのが、1990年から2011年では2594件で、東日本大震災のあった2011年に限って言えば593件である(グラフからははみ出ている)。「家族の絆(きずな)」という言葉が入ったタイトルの記事は、戦後から1989年までたった3件だったのが、1990年から2011年まで203件(今年は17件)で、今年を例外としても、増加するトレンドに変化はない。

朝日新聞の「絆」「きずな」のタイトル記事数の変遷(1984−2011)

 調べる前は、阪神大震災地下鉄サリン事件のあった1995年あたりがターニング・ポイントだろうと、漠然と考えていた。実際、95年には阪神大震災で救助活動に当たった警察官の手記が『絆』というタイトルで出版されているように、それなりに重要な年である。しかしグラフを見ればわかるように、もっと決定的な時期は、「少年犯罪」「キレる若者」がメディアを賑わしたり、企業の「リストラ」が大規模に行われたりして自殺者が年間3万人を突破するようになった、1997年から98年にかけてである。90年代半ば以前と違う傾向があるとしたら、以前は「絆」は好き嫌いにかかわらず厳に存在するものであったのが、90年代後半になると「絆」の不在や崩壊に対する戸惑いや不安が語られるようになっていることだろう。出てくる文脈も、高齢者夫婦の介護や児童虐待など明らかに深刻な話題が多くなっており、こうした問題を背景に2000年代以降も「絆」が盛んに用いられていくことになると理解できる。それは以前のような、経済成長の中で忘れかけていた家族や故郷の「絆」を想い出そう、という牧歌的なものでは全くなくなっている。

 「絆」と意味が重なる概念に「連帯」がある。以下は年代順に両者の登場する記事タイトル数をグラフ化したものであるが、70年代以降に左派系の市民運動が盛り上がって「連帯」の使用例が増えたようだが、その後次第に漸減して、2000年代に「絆」と使用頻度が完全に逆転している。

朝日新聞』「絆(きずな)」「連帯」タイトル記事数の変遷(年代別)

 さらに、「社会」「市民」などいかにも「連帯」が相応しい概念もが、近年は「社会の絆」「市民の絆」に取って代わられている傾向がある。以下の表は「社会」「市民」との関係で「連帯」の「絆」のいずれが用いられているのかの用例数を比較したものである(『朝日新聞』『AERA』『週刊朝日』のタイトル・本文を検索)。

「社会(市民)の連帯」か「社会(市民)の絆」か

 90年代以前は「社会」「市民」の「絆」という表現は極めて少なく、1998年に当時社民党辻元清美が「市民の絆・大阪」という市民団体を立ち上げているが、これは当時においてはまだ例外的なものであった。それが2000年代を通じて徐々に「連帯」と「絆」の差が縮まり、この2年はついに逆転されている。ちなみに、今年「連帯」が微増しているのは震災があったからというより、菅政権が一時期「社会連帯税」構想を打ち出していたためである。

 この結果を見ると、長い間にわたって「連帯」を掲げてきた福祉国家論者や社会保障の専門家にとって、東日本大震災における「絆」の爆発はあるいは逆風なのかもしれない。「税と社会保障の一体改革」はさすがにないが、近年は政府の審議会や報告書などでも「絆」が用いられることが多い*1 。なぜ「連帯」ではなく「絆」が好んで用いられるようなったのかについては、正直難しい問題で今の段階では何とも言えない。

 結局これでお前は何が言いたいのかと言われると少し困るのだが、現代日本社会の最も直近の起源が1997年から1998年の辺りにあり、戦後日本の経済・雇用・家族のシステムが解体していく(少なくともそう観念された)時代と歩調を合わせる形で求められるようなった言葉が「絆」であるということを、つまらないようだけど最低限確認しておきたい。

(追記)

 3枚目のグラフを若干修正。細かい内容の分析までは手が回らなかったので、あるいは誤解や単純化があるかもしれない。

(追記2)

 ブックマークでご指摘があったように、これは『聞蔵?』の検索能力に完全に依拠しているので、あるいは偏っている可能性がある。また記事内容の検索ができるのは1984年以降とそれ以前で、検索精度が落ちているのかもしれない。ただこの問題を解消するためには、それこそあの分厚い縮刷版を全て引っ繰り返して調べる必要があり、場末のブログということでなにとぞご容赦願いたい。

(参考)

 文章の内容も調べてみたので掲げておく。『聞蔵?』が1984年以降しか記事内容を検索できないので、それ以前は国会議事録からの引用になっている。

衆議院商業委員会 - 昭和22年11月12日


○冨吉政府委員 陳情の内容は板ガラス工業が財閥の独占事業であつて、これをめぐる卸売業者が從来特殊の因縁情實関係によつて結びつけられており、小売業者の介在を許さないばかりか、小売業者を排撃する結果が配給面に現れておるが、政府はこれらの悪弊のきずなを断ち切つて、封建的支配勢力から脱却したいわゆる、民主的にして需要者本意の配給機構を打立てようというのが陳情の御趣旨でありまして、この点至極ごもつともなる御陳情と思料される次第であります。

衆議院内閣委員会 昭和30年05月12日


○森(三)委員 ・・・先ほど、次長の答弁を聞いておりますと、日米合同委員会あるいは施設委員会等の使用条項等に対する解釈の問題等が出ておりますが、・・・・要するに日米安全保障条約、行政協定に基くところの大きなきずなが、こうした問題を起している。ところがそれに拘束されておるところの調達庁当局は、全く事務的に、アメリカの便宜をはかるというような態度にしか出ていないということを、先般来のあなたの答弁を聞いておってつくづく私は思わされておるのであります。

衆議院大蔵委員会 昭和39年06月17日


○只松委員 ・・・・・一方指導監督、生殺与奪の権を持ちながら、中正になれ中正になれというのは、これはちょうど親子の間の関係のようなことを、あなたたちがあくまでも権力を握って、封建的なきずなの中で中正を求めていこう、こういうことをしているのと同じなのです。違いますか。だからほんとうに中正を求めようとするならば、そういう従属関係ではなくて、この社会、民衆というのは平等が原則なのです。

衆議院文教委員会 昭和47年03月15日


○小林(信)委員 武器が強奪され、そして軍資金が集められておるということは警察でもわかっておったはずです。しかも、こういうことがあとでわかったと言われましたけれども、いまの森というものの「党は不要、軍に結集せよ」ということばの内容には「革命家は人民全体に奉仕するのだ。親、兄弟とのきずなを断ち切り、プチブルたちの非難、批判に耐えなくてはならない。そのためには、狂人になることだ」気違いになることだ、こういうようなものがつぎ込まれたわけです。

参議院予算委員会  昭和48年03月23日


国務大臣田中角榮君) まあ、一言にしては申し上げ得ないのでございますが、やっぱり享楽主義というか、これは一つには、もう結婚すれば子供ができる、できた子供は自分の命にかえても育てなければならないというのが日本人の美徳であったはずでございます。まあ、昔も暗い事件として、農村において古い機構の中では間引きをしたり、口減らしをしたりという非常に悲しい物語がありますが、しかし、戦後のほんとうに困難な、生きられるか食えないかわからないときにはこんな風潮はなかったんです。これは、ほんとうに戦後の困難なときには、とにかく死ぬならともに死のうというような親子のきずながあったわけですが、このごろ非常に急速にこういう問題が起きておると、これはいままであったんだけれども表に出なかったという問題じゃありません。これは数からいっても、その性質や状態からいっても、非常に異常な状態にあるということは、これはもうひんしゅくをするというような状態ではなく、ほんとうにどこかが間違っておるんだという感じがいたします。

参議院予算委員会 - 11号  昭和56年03月17日


渡部通子君 ・・・ボランティアについて多少お伺いをいたします。新しい憲法のもとで社会福祉という言葉が使われるようになりましてから三十四年になりますが、高度成長の過程での都市化した社会、家族化の傾向の中で国民は地域から離れ、家庭のきずなを忘れた人々も多くつくり出してしまっているのが現状だと思います。残念ながら福祉という意味が国民の一人一人の物に完全にはなっていないのではないか、こういう感がいたしてなりませんが、厚生大臣の福祉に対する哲学をひとつお述べください。

災害に生かせ、住民のきずな(声)  朝日新聞1984年10月08日 朝刊


 エプロン姿の主婦が、車の荷台から毛布にくるまった老婆を背負い、校庭に敷かれたゴザまで大事そうに運んだ。ゴザの上に座り込んだ老婆は放心したかのようだった−−長野県西部地震、被災地王滝村の様子を伝えた映像の一コマである。
 「家族や村民の絆(きずな)がしっかりしとったで、まだ助かった」。地震を振り返り、村の主婦はこう言った。私は、この言葉の中に今回の地震の教訓の一つが含まれていると思う。
 もし、東京で大地震が起きたら……。この街に近所付き合いはあまりない。地域と縁の薄いアパート住民が多く、とても絆は期待できない。その時、混乱の中で弱い老人たちは、逃げることもできず見捨てられてしまわないか。

長女とのきずな断って(ひととき) 1989年12月14日 朝日新聞朝刊  


 ・・・・・・・・・・・

 数年前のことである。僚友として接して来たつもりの長女が私と衝突して音信を断った。私は苦しみ、病んだ。25年の職歴と誇り、社会人としての信用も経済力も、決して私の自立ではなかった。もっと人間としての根源で独り立ちしていなかったことを思い知らされた。
 そんなある日、職場から帰った夕やみの庭で、長女の育児日記と母子手帳を焼いた。初めて母となる甘い満足を一ぱいにちりばめたはずの3冊を読みかえしもせずに。そして、見えない長女とのへその緒を切った。その炎は私の余生の確かな肥料となった。私という育ち遅れた筍(たけのこ)は気付かなかった最後の皮を振り落とした。その煙の力で。

親子の絆(子どもの周辺) 1994年01月19日 朝日新聞朝刊 奈良


 今、私の心の中を木枯らしが吹きすさんでいます。父親が子どもに殺傷されるという事件が続けて報道されたからです。
 なぜこのような悲しい事件が起こったのでしょう。親と子は強い絆(きずな)で結ばれているはずです。現にこれらの事件の親子も仲の良い親子だったのです。
 ・・・小さいころからさまざまな経験をし、失敗したり成功したりしながら、自己を知り、未来を選択してゆく力を身につけてゆくのです。そうした子どもの成長を見守り、支えてゆく親の姿に、子どもたちは人生の先輩としての信頼と、自分を信じてくれる深い愛情を感じ、強い絆を結んでゆくのだと思います。
 もし、学業成績だけにこだわり、親の幸せ像だけを押しつけるのであれば、そこに強い絆が生ずるわけはありません。見せかけの絆ではなく、お互いに信じ合い、尊重し合う中に、本当の親子の絆が結ばれるのではないでしょうか。
 (県高田児童相談所次長 沖本雅彦)

焼きイモと家族の崩壊 山口文憲(店頭拝見) 1997年06月29日 朝日新聞朝刊



 東京郊外の、とある駅ビルの階上にある大型書店の昼下がり。土地柄なのか、この時間に本屋でひまをつぶしているのは、家に居場所がないという感じの男の老人ばかりなのだが……。
 きのうもそこへでかけていくと、そんな老人の一人が、店内の柱に張ってあるブックフェアのポスターの前に立ち止まって、その文句を読んでいた。


 いま、「家族」に何かが起こっている。
 激増する離婚、
 溝を深める親子、
 虐待される子供たち、
 孤立する老人たち……。
 (中略)
 家族の絆(きずな)を取り戻し、深めるにはどうしたらいいのでしょうか――。


 みればフェアのタイトルは、『家族の崩壊・家族の絆』である。孤独な老人たちの息抜きの場でこういう催しをやるというのも、なんだか心ない感じではあるが……。これは十二の出版社が参加する連合企画で、各社がこれと思う本を五点ずつ出品しているらしい。

 1960年代までは、外交問題の文脈以外では、「束縛」「従属」「癒着」という意味で「絆」が用いられることが多く、70年代後半以降になって高度経済成長のなかで見失われた家族や地域の「絆」を見直そうという言説が次第に登場し始めている。そして1990年代半ばになって、いまにつながるような、「崩壊」した家族や地域の「絆」を取り戻そうという主張になっている。言説の変容と言及数の増加は微妙にズレており、基本的に前者が先行している。

*1:「各自治体において、日本の伝統や文化等を含めて絆を問い直そうという気運が高まっている。生涯学習は、まちづくり・人づくりを担うものであり、日本の文化や伝統を含めた絆を再構築する視点が必要ではないか。また、地域や家庭における学びを支えていき、保障していく視点が必要ではないか。」(生涯学習・社会教育の振興に関する今後の検討課題等について

「ポピュリズム」とは何を指すのか

 先週「大阪W選挙」で圧勝した橋下前大阪府知事の政治手法は、「ポピュリズム」と称されることが多い。「ポピュリズム」は政治学者による研究の蓄積はあるようだが*1政治学の教科書や事典でも物によっては項目がなく、一般には「有権者をバカにした人気取り政治」という否定的な意味合いがあるので、個人的にはこの言葉をほとんど使わないようにしている。しかし「橋下人気」の盛り上がりで、「ポピュリズム」の言葉をあちこちで目にするようになるにつれて、「ポピュリズム」と名指される事態が何であるのかについてあらためて気になったので、ここで簡単に触れてみたい。

 「ポピュリズム」は、れっきとした民主主義をめぐる概念の一つである。たとえば、民主主義の考え方は、大きく二つに分けることができる。一つは、様々な利害や価値観をもった個人や集団の間の対立や話し合い妥協のプロセスであると考えるものと、もう一つは住民や国民全体が共有すると想定できる利害や価値観を可能な限り実現していくものであると考えるものである。前者における政治家の役割が、個別の理念や利害を組織化して議会において代表していくことにあるのに対して、後者における政治家は「国益」などの全体的な利害の観点から、それに反する価値観や勢力の存在を取り除いていくことが重要な役割になる。つまり、前者における「民意」があくまで多様な価値・利害の交渉と妥協の結果であるのに対して、後者は全体としての「民意」の存在をあらかじめ前提とし、その「民意」の名の下に個別の利害や価値観を偏ったものとして否定あるいは軽視するものである。前者を「多元主義」的な民主主義、後者を「一元主義」的な民主主義と呼ぶことができるが、「ポピュリズム」は言うまでもなく後者の一元主義的な民主主義に属するものである。

 しかし当然ながら、一元主義的な民主主義の全てが「ポピュリズム」と呼ばれている、というわけでは決してない。歴史上の革命運動、反植民地独立運動、戦時下の好戦世論などはこの定義に当てはまるが、これらは「ポピュリズム」とは呼ばれない。何故かと言えば、これらの場合は「少数の特権的・独裁的な政治勢力」と「それに暴力的に抑圧される大多数の国民」という政治的な構図が存在しているか、国民全体が共有する価値や他の全てに優先する政治的目標がきわめて明確で、いわゆる「ポピュリズム」とは異なり、現実的な実体のある民主主義であると理解されているからである。

 当然ながら今の日本には、こうした一元的な民主主義が当てはまる現実的な条件は存在しない*2。例えば、中国の共産党に相当する程度の特権支配勢力は明らかに存在しないし、「国益」「民意」が何かというのも複雑化して簡単に特定できないものになっている。「経済成長」は依然として不可欠だとしても、もはや個々人の些細な利害関心を押しつぶしてしまうほどの強力なものではなく、あくまでそれがないと財政健全化や社会保障制度の維持がより困難になるという、消極的な位置づけになっている。一言で言えば、「民意」が多元化・複雑化して民主主義が「手間がかかる」ものになっているのであるが、それ自体はある面において自由で成熟した社会が実現できていることの証明であって、決して悪いことではない。

 問題は、それにも関わらず、2000年代以降になって「国益」「民意」の名の下に官僚・公務員の些細な「特権」「既得権」が攻撃されるという一元主義的な形の民主主義が、ますます強まっていることであろう。官僚・公務員に関する問題の一つ一つは確かに不愉快なものであるが、たとえば「天下り」を全廃したところで、デフレ脱却や社会保障の再建・強化、過労・貧困問題の解消にとって一体何が前進するのかを真面目に考えはじめると、今の官僚批判の盛り上がりはやはり何かを間違えているとしか言いようがない *3。それは、護送船団方式財政投融資の仕組みが強固に生き残っていた90年代までならともかく、それらが明らかに解体もしくは弱体化している現在になって、そうした官僚批判がかえってエスカレートし、しかもその批判の焦点も給与水準や年金格差といった(つまり解決したところで効果も薄い)小さな問題に当てられていることにも象徴されている*4。おそらく「ポピュリズム」という言い方が登場するようになるのは、こうした政治が盛り上がるような局面である。つまり、一義的な「民意」の存在を事前に想定する形の民主主義が、現実には不可能あるいは困難になっているはずなのにも関わらず、軍事・外交あるいは財政上における「国家的危機」が過剰に喧伝されたり、あるいは一部の特権勢力とそれに抑圧される国民という対立図式で政治問題が語られたりして、それがなぜか世論の広範な支持を得てしまうような現象が、「ポピュリズム」と呼ばれているのだろうと思う。

 ただし、その現象を「ポピュリズム」と呼ぶべきかどうかについては、やはり依然として躊躇がある。政治学者がどう定義しようと、「ポピュリズム」には「愚民政治」「大衆迎合主義」という語感を払拭することができない。たとえば「反橋下」の急先鋒の政治学者である山口二郎氏が、「地域で人とつながる運動や仕事をしている人の中で、橋下をほめる人はいない。・・・寄る辺ない、孤立した民衆が橋下に自暴自棄的な希望を託している。コミュニティにつながっている人には橋下の危険性が分かる」と、「橋下人気」の背景を分析しているのが典型的であるが*5、「ポピュリズム」という言葉を好んで用いる人は、支持者が正常な政治判断ができないほど「不幸」「異常」な状態に陥っている、と考えたがる傾向がある。

 元から橋下を不愉快に思っている人は、橋下支持者がまともな精神状態じゃないという、こうした解釈に深く共感する(あるいは安心する)のかもしれないが、個人的には全く納得できるものではない。例えば、山口氏の解釈に従うと大阪府民の過半が「自暴自棄」状態にあるということになるが、これはとても真面目に受け入れられるものではない。むしろもっと素直に、普通の真面目な有権者の「健全」な問題意識のなかで、橋下が魅力的で説得力のあるものとして支持されていると理解されるべきである。たとえば、官僚・公務員の「既得権」や「無駄遣い」こそが今の日本の根本問題であると大阪府民(ひいては日本の世論全体に)に理解されているとすれば、その問題をもっとも歯切れよく批判・攻撃する橋下が支持されるのは当然なのである。もし「ポピュリズム」を批判するというなら、民主主義を多元化していくこと、つまり経済・生活上の関心に基づく多様な利害関心を組織化し代表していくという方向で民主主義を再構成することが必要になるが、今の日本では官僚・公務員の「既得権」「無駄遣い」が、すべての争点に優先すべき政治課題であるかのように扱われていることで、これが完全に妨げられている。

 その意味で失望したのが、山口氏ら「反橋下」派の知識人たちが、生活関心の組織化という地道で泥臭い課題に取り組むのとは全く逆に、愚にもつかない頭でっかちの「独裁」「ハシズム」批判に堕して、真面目な有権者をかえって遠ざけてしまったことである。橋下を「ポピュリズム」と批判する側こそが、それに輪をかけたポピュリズムに陥っていたとしか言いようがない。

(追記)

 この文章を書いた自分の問題関心は、「ポピュリズム」そのものというよりも、現在の日本で一元的な「民意」を前提とした民主主義が、周辺的な少数派に対する抑圧的・差別的な政治を強化するものでしかないという点にある。植民地政府や独裁体制に対する抵抗運動や高度経済成長の時代であれば、「独裁からの自由」や「貧困からの脱却」を一元的な「民意」として仮定しても、それが同時に少数派の権利を引き上げることにもなった。しかし今は、日本を含む現代の先進諸国のように、全ての国民の自由・平等を抑圧している独裁勢力もなければ、全ての国民の生活水準を引き上げる高度成長も現実的ではなくなっている。こうした条件の下で、一元的な「民意」の名の下に政治を行えば、必然的に周辺的な少数派の利害関心を軽視・排除するような民主主義に陥ってしまう。そのことは、朝鮮学校生活保護受給者に対する橋下の厳しい態度に、如実に表れていると言えるだろう。

 民主主義の意義は、声を上げる能力すら奪われたいかなる周辺的な少数派でも、政治的な代表の権利を持ち、その経済生活上の利害が配慮される可能性を有するという点にあると考えている。大層なことを言いたいのではなく、「民意」の名の下に行われる差別や排除をやめろと言っているのであり、それは「ポピュリズム」などという言葉を持ち出さなくても批判できるはずのことである。

 ちなみに個人的に腹が立つのは橋下自身というよりも、「賛成するかどうかはともかく、逃げ回っている野田さんに比べるとメッセージがありますよね」などという逃げ道をつくった言い方で持ち上げる、ジャーナリストや政治評論家(というか政局ウォッチャー)たちである。まさに、社会を変える意欲もなければ倫理感もなく、政治がどう転んでも批判されないように、世論に薄く弱く迎合することで保身を図るという、最も堕落した「ポピュリスト」と言えるだろう*6

(「生活関心の組織化」について)

 「生活関心の組織化」というのは誤解を招きやすいが、圧力団体をどんどん組織化しろと言っているのではなく、政治家は有権者に対して生活上の苦労や不安が解消するような政策を具体的に示すべきだと言っているにすぎない。さらに言えば、自分の生活上の利害関心の問題を中心に政策を判断するような意識付けを、有権者に対して施していくことも必要である。簡単に言えば、有権者は政治家の主張に対して、「『維新』『改革』って何それ?食えるの?」と、常に突っ込みを入れられるようになるべきなのである。

 もちろん人々の生活上の利害関心は多様だから、どのような政策もある特定の階層や集団の利害関心に偏ったものにならざるを得ないが、それでいいのである。たとえば、障害者運動の現場から出発して、国全体の社会保障制度の再建・強化を構想していくことや、ビジネスの現場から出発して適切な経済政策が何かを考えていくことは、決して矛盾している話ではない。重要なのは、現場の声を汲み上げる政治家やメディアと、官僚や学者などの専門家との連携ができているかどうかであって(現状この連携がズタズタになっていることは否めないが)、ある政策が何らかの特定の集団・階層の利害関心から出発していることは別に当たり前のことであり、むしろそうあるべきだとすら言ってもよい。

 逆に言うと、いきなり「日本」や「大阪」といった全体を主語にした政策は疑ってかかるべきである。民主的な社会である限り、どの政治家や政党も特定の層や集団の利害関心に偏ることは決して避けられない。「日本再生」「大阪維新」などというフレーズは、そうした政治家や政党の特殊利害を悪質な形で隠蔽し、その利害を共有しない人たちにまで無理やり押しつけようとするものでしかない。

*1:http://synodos.livedoor.biz/archives/1717403.html 吉田氏の議論は勉強にはなるが、9分9厘否定的な文脈でしか言及されない「ポピュリズム」を、一般的な分析概念として用いるのは、やはりあまりに無理があるように思う。

*2:ただし、東日本大震災に関連する政治問題については一部存在する。

*3:行政の無駄を削減すれば社会保障の財源がいくらでも出てくるという論理も、民主党政権がその誤りを見事に「実証」してしまった。

*4:むしろ、財政投融資のような大きな話よりも、こうした細かな賃金・給付水準の格差の問題のほうが、人々のルサンチマンをより喚起しやすい。

*5:http://twitter.com/#!/260yamaguchi/status/137893858871750656

*6:山口二郎氏はこういう人たちに比べればはるかに誠実ではある。

公平性を確保する三つの方法

 今の日本で税負担の公平性をどう実現するか正直分からないと前回書いたが、いくつか考えられる方法について簡単に触れておきたい*1


(1)税負担が完全に社会保障給付と対応していることを明示する

 これは全くの正論だが、既に「税と社会保障の一体改革」でも強調されており*2、もしこれで税負担に対する納得を得られていないとすると、納税者の不満は別のところにあると考える必要がある。それに「税と社会保障の一体改革」を仔細に見ると、社会保障よりも財政再建的な論理が強く、それは社会保障費が急激に増加する過去10数年に増税どころか(法人税所得税の)減税をやってきた過去を埋め合わせるという性質上致し方ない面もあるが、増税の対価として給付があるということを国民に実感させることは現実には難しいだろう。


(2)「経済成長」を先行させることで増税への負担感をやわらげる

 不況で限られたパイの中で税負担を要求するより、全体の経済のパイを増やしたほうが税の負担感が減少し、増税に対する合意も得やすくなる、というのは確かに一理ある。ただ、今の日本で可能と予想される水準(高くて3%程度)の経済成長の実現でそうした条件ができるのかどうか疑問であるし、バブル絶頂期の1989年の消費税増税における世論の激しい反発を思い起こしても、経済成長があると税負担に対する合意も得やすくなるとは単純には言えないことは明らかである。経済成長によって国民が税負担に寛容になる可能性も否定はしないが、「せっかく自分が頑張って稼いだ金なのに」と、富裕層・中間層の自己責任的な所有権意識を強める可能性も、同等に存在すると考えるべきである。2000年代半ばの「いざなぎ越え」の経験を素直に振り返れば、明らかに後者だろう。


(3)国会議員や官僚など税負担を要求する側が「身を切る姿勢」を見せて国民の理解を得る

 これは今の日本のメディア・世論の中心的な意見であるが*3、全面的に間違ったものである。当たり前のことだが、そもそも議員定数や行政職員の人員は、民主主義の代表性や必要な行政サービスの業務量で決めるべきであって、「財政再建」の論理とは切り離して議論すべきである。それに、増税が政治課題になるたびに「無駄遣いの削減」が焦点になり、それをめぐる報道が加熱するようになれば、かえって世論の反感が強まることが容易に予想される。とりわけ「事業仕分け」のように、一度廃止を宣言しておいて後でこっそり復活、という姑息な手段が逐一報道されていれば、誰だって増税に素直に納得できなくなってしまう。国会議員や官僚が身を切ったところで大した財源にはならないし、逆に民主主義や行政運営の機能不全を引き起こすリスクがあり、しかも肝心の政治家や官僚への信頼回復にとってもマイナスに作用する可能性が高い。もし、社会保障の再建・強化を目指すための増税が必要であると言うのなら、「身を切る姿勢」などは無意味であるどころか百害あって一利なしであることを理解すべきだろう。


 以上の三つの道ともそれぞれ困難であるが、それでもこの三つの選択肢しかないというのであれば、(1)と(2)を慎重に組み合わせながら、税負担の公平性の確保を図っていくしかない。

 (3)は全くの論外である。普遍主義的な社会保障体制を目指す立場からは、税負担は第一義的には自分の生活・生存のためである(生活が悪化すれば税負担を根拠に政府を批判できるようになる)、ということを国民が実感してもらうことが望ましいが、「まず自ら身を切る姿勢を」という論理は、それに完全に逆らうものである。「自ら身を切った後に増税をお願いする」は、よほどうまく進めなければ単なる不公平感の再生産にしかならないだろうし、そのことに政治家も政治評論家も早く気付くべきだろう(もっとも評論家は気付いても改めることはないだろうが)。

 最後に、くどいようだが、所得税累進強化を主張するにしても消費税増税を主張するにしても、税負担の公平性をめぐる世論の感情に対して、もっとセンシティヴでなければならない。経済・財政の専門家は方法の問題ばかりに頭を使うか、実際にどのような税負担の方法を選択できるのかは、結局のところは公平性をめぐる世論感情の問題に依存する。もし何が税負担として公平かという問題を、もっと税制改革の議論にも反映させていれば、「まず議員と官僚が自ら身を切る姿勢を」などという実際のところ誰も得をしない精神論が、少なくともここまで圧倒的に力を持ってしまうことはなかっただろうと考える。

(追記)

 「税と社会保障の一体改革」のどこにも、議員定数や公務員人件費の削減の話など(当たり前だが)出てこない。しかし、「税と社会保障の一体改革」周辺の政治家は、世論に向き合ったとたんに「自ら身を切る姿勢で国民に納得していただく」などと言ってしまう。社会保障制度の再建の話であるはずが、メディアでは「無駄遣いの削減」が中心的なテーマになり、連日そうした報道に接するうちに国民も税負担に対する不満や不公平感を募らせていくようになる。そして、そうした不公平感を煽ることで利益を得ようとしている、野心を持った政治勢力や在野の評論家につけ入る隙を与えている。

 財政や社会保障の専門家は、「世論は理解していない」と思い込んでいるが、決してそうではない。「わかっているけど納得できない」のである。どのように世論の納得を得るのかについて、専門家は政治家にあずけっぱなしにしてしまうのではなく、もっと真剣に考えてほしいと思う。

(累進税論者に一言)

 ネット上では所得税累進強化論者が多く、問題意識そのものは共感できるのであえて言っておきたいが、「正論」に居直るのではなくもう少し他人を説得させるような言葉遣いをしてほしい。

 何が公平な税負担であるのかという点に関しては、その社会の政治文化によって決まるものであって、一義的には決められない。あえて言えば、「みんなが公平だと思っていること」が「公平」なのであり、それをひっくり返すには物凄い労力が必要である。だから、「負担の逆進性=不公平」であると思っている人は、「逆進的でもより均等な負担こそ公平」と考えている人をどう説得できるのかということを常に念頭に置いて、慎重に言葉を選ばなければならない。

 かつての高い累進率は、世界恐慌と二度の世界大戦という膨大な犠牲者を生みだした凄惨な経験が、一握りの人間が富を独占していることの正当性を、否応なく失わせてしまったことで可能になったものである。さらに「共産主義」という、権力を握らせたら富裕層などたちまち粛清されてしまう政治勢力が現実に存在していた。

 こうした条件を抜きに、ただでさえ大きな権力を有している富裕層に高い税負担を要求することがどれだけ困難であるのかを、もっと自覚してほしい。少なくとも、リーマン・ショック程度ではこの困難さが解消されないことは、今のアメリカが示している通りである。個人的には、この困難を敢えて突破しなければならないほど、累進所得税にこだわるべき必然性や正当性は感じない。

(再分配の方法的対立について)

 同じ再分配を志向する人でも、経済学系の人は累進所得税のように高所得者のみに税負担を課し、低所得者をターゲットにした現金給付の金銭的な分配を施すという方法を好む傾向がある。それに対して社会保障系の人は、消費税や住民税のように低所得者にも薄く広く税金をかけて、全国民を対象とした現物給付の制度的な再分配を支持している。

 再分配政策が社会保障論の専門領域である以上、ある意味で当たり前であるが、この対立については後者のほうが圧倒的に正しい。前者は公平性の確保という、現場が直面しなければならない政治社会学的な大問題を完全に無視しているし、そもそも日本の社会保障制度は医療・介護・年金ともすべて普遍主義的に設計されている以上、戦争や革命でも起こらない限り政策論的には後者を選択する以外にあり得ない。

 1年前まで盛り上がっていたベーシック・インカム論が急速に冷えてしまったのは、それが政策論的に非現実的であるという単純な事実に、みんな気付いてしまったからだろう。ベーシック・インカム論を原理的なレベルで支持している自分からすると、これを経済学者などが下手に現実的な政策論として語ってしまったことが、すべての間違いであったと考える。ベーシック・インカム論を主張する資格があるのは、「親から小遣いを貰って働こうとしもない五体満足の30歳男性」に月10万円が無条件に支給されることを、世間に向かってどう説得するのかを真剣に悩み考えている人だけである。

*1:そもそも近い将来のあらゆる増税を否定するという選択肢は除外している。

*2:「消費税収(国・地方、現行分の地方消費税を除く)については、全て国民に還元し、官の肥大化には使わないこととし、消費税を原則として社会保障目的税とすることを法律上、会計上も明確にすることを含め、区分経理を徹底する等、その使途を明確化する(消費税収の社会保障財源化)」http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/syakaihosyou/kentohonbu/pdf/230630kettei.pdf社会保障目的税」には異論もあるが、負担と給付の関係を明確化するという意味では必ずしも反対ではない。

*3:世論調査―質問と回答〈10月15、16日実施〉

税負担の公平性について

 税に関する議論を眺めていていつも思うのは、どの論者も税の問題にとって根幹であるはずの負担と分配の「公平性」の問題に、あまりに無関心・無頓着であることである*1。というより、論者がそれぞれ自明としている「公平性」に無自覚に寄りかかっているため、議論が常に一方通行になっている印象がある。一方通行の議論を許容してしまうと、現状において権力をもつ多数派の意見が自動的に勝利し、権力をもたない少数派の意見が論争以前に敗北しまうことになってしまう。税負担の「公平性」そのものに関する議論がもっと深められなければならない。

 何が「公平」な負担であるかというのは極めて難しく、その国の政治文化によって異なるし、その人の価値観によっても大きな違いがある。たとえば、消費税と累進所得税とのいずれが公平であるのかは、容易に決着のつかない問題である。テレビを見ると、増税の手段として消費税が「公平」であることはほとんど自明の前提で議論が進んでいるが*2、逆にネット論壇(とくにはてな周辺)では所得税累進強化論への支持が強く、消費税の逆進性に対する批判的な意見が多い。消費税が「逆進的=不公平」と考えている人もいるが、所得の多寡に関わらず少しずつでも税負担に応じるのが「公平」であるという論理は、それ自体は一概に間違っているとは言えない。特に、社会保障をより普遍的な形で(一部の弱者限定ではなく全国民的に平等に)行うべきだとすれば、そうである。

 私自身は、累進所得税よりは消費税のほうがより公平であり、税負担は少々逆進的でも普遍性が高いほうが、経済弱者への積極的な再分配を可能にすると考えている。というのは、貧困者や低所得者も税を均等に負担しているという事実が、彼らの社会的な権利に対する政治的な要求を正当化する根拠になり得るからである。つまり、もし「代表なくして課税なし」が民主主義の基本原理の一つであるとすると、逆進的な課税は経済弱者に対する政治的代表権の根拠を与えるものとなり、結果としてより高い再分配政策を可能にすると理解できる*3。逆に、累進所得税はそれが実現できたとしても、かえって富裕層の「こんなに高い税金を負担しているのに」というルサンチマンに説得力をもたせ、税収増大のために富裕層の経済活動を優遇せざるを得ないという構造を強化するだけで、結果として低所得者への再分配政策をより困難にする危険性がある。

 ただし、消費税のような均等な税負担こそが公平であるという論理は、税が政府の社会サービスの対価であり、かつ政治的・社会的な権利の根拠にもなるという理解が(頭だけではなく感覚として)国民の間に共有されていて、はじめて通用するものである。いまの日本では、そうした理解が共有されているとは言えない。たとえば、野田政権以降頻繁に語られている、「増税する前に議員や官僚が身を切るべき」という主張には、税負担とは政治指導層が限界ぎりぎりまで汗をかき血を流しきった段階で、「そこまで頑張っているならこちらもガマンしなきゃ」と国民の目に映るようになって、はじめて要求できるものであるという理解がある。つまり、税負担は国民の社会的な権利の根拠や対価としてではなく、政治家・官僚の「苦労」や「頑張り」に応じたものというわけである。

 今の消費税増税反増税の世論は拮抗しているが、実際のところ両者は完全に地続きで、ただ政治家や官僚がもっと身を切れると見るのか、あるいはさすがにもう限界だろうと考えるのかという、いわば程度問題に過ぎない。そこでは、税負担というのが、政治家や官僚がギリギリまで身を削った後にはじめて国民に課せられるもの、という理解は両者の間で完全に共有されている。

 ゆえに、もし税に関するこうした政治状況や世論感情の存在を前提にすると、均等な税負担こそが公平という消費税増税論者の論理には、根本的な問題を抱えていると言わざるを得ない。というのは、今の日本において増税が可能な政治的条件というのは、国民が何も要求・期待できないほど政府が追い込まれた状態を前提としたものであり、税負担が増えたところで教育・福祉の現場の財源不足が若干緩和される程度で、国民が政府に対して何か新たな社会サービスを要求できるようには、まずならないからである。政治家・官僚の「苦労」や「頑張り」に応じたものとして税負担があるという論理においては、増税はその「苦労」や「頑張り」を共有するという観点から受容されるものである以上、税負担に応じた分配と社会サービスの要求などは、下手をすると「わがまま」「ぜいたく」と非難されかねない。結果として、消費税増税は単に低所得層に対する逆進的な負担でしかなくなってしまう。

 このように、消費税は逆進的だから不公平という論理は、分配の側面を意図的に無視しているという意味で正しくない。ただ、以上のような日本の政治環境や世論を前提にすれば「分配なき負担」になることは確実である以上、消費税の逆進性に対する警戒感それ自体は十分に理解できるものである。自分自身、消費税増税論者の杓子定規な「正論」に不快感を覚えることが少なからずある(これは反増税論者の経済学的な「正論」も同様である)。

 自分が最悪だと考えるのは、「消費税こそが公平」と言いながら、同時に「まず議員や官僚が身を切る姿勢を」と主張している政治家や評論家たちである。つまりこの論理だと、低所得者は逆進的な税負担に応じなければならないと同時に、彼らが分配を要求しようにも、「議員や官僚も限界まで頑張っているのだからわがままは言えない」という空気に圧殺されることになるからである。

 しかも、政治番組に出てくるどのコメンテーターも、財政悪化の責任を政治家や官僚の責任として「まず自ら身を切るべき」と批判しつつ、そのための最終的な負担は消費税という形で国民が均等に背負うべきだと言っているが、これでは世論が「どうして永田町の政治家や霞が関の役人の尻拭いを俺たちが」という不満や不信感を募らせるのは当然であり、増税の政治的な困難をいたずらに強めているだけである。本当に消費税増税が公平で必要であると考えるなら、われわれの社会保障制度を維持・強化していくためという至極単純なことを言い続ければいいのに、政治家や官僚の責任を指弾して「まず身を切る姿勢を」などと言ってしまうから、国民世論のあいだに消費税増税に対する不公平感が蓄積されてしまうわけである(もちろん政治評論家はそれによって得をする人たちではある)。

 もし増税論者が、「議員や官僚が身を削る」「無駄遣いの削減」で国民に増税に対する理解を得るつもりなら、それは明らかに泥沼の道としか言いようがない。大きな組織で無駄遣いがないわけはない。特に官公庁のように業務の性質上目に見える「成果」をアピールしにくい組織は、その気になればすべてを「無駄遣い」視することができる*4。そして、「無駄削減を徹底しろ」という声のもとに予算を精査すると、「ほらやっぱりこんなに無駄が」ということになり、ますます世論の反感が強まって増税は困難になっていく。一度は実現できたとしても、次がまた大変である。

 まとめると、私は普遍的な社会保障の負担の在り方として消費税が最も公平性が確保しやすい税制だと考えるが、税負担は政治家や官僚が限界まで身を切った上で行うべき、という現行の世論を前提にするのなら、現実的にも世論感情の上でも消費税では人々の公平性を確保することはできない。では所得税累進強化のほうがよいのかと言うと、もちろん賛成ではあるのだが、これは1980年代に先進諸国で公平性の確保に一度「失敗」している税制であり、またネット上の匿名ブログなどを除けば、今の日本で所得税累進強化を前面に掲げている経済・財政の専門家はほとんど見当たらないし、また繰り返すように政治的なリスクがきわめて高い。はやり世論を変えていく政治家と専門家の役割に期待するしかないと思う。

(追記)

 自分がこういうエントリを書いたのも、国民のなかにある税負担の不公平感を無視した、財政学的な「正論」が多いことに対する違和感があっためである。社会保障を維持・強化するために増税が不可避であること、税負担なき充実した社会保障があり得ないことなどは、あらためて言われるまでもなく、国民の大多数も十二分にわかっている。よくわかった上で国民は「やはり納得できない」と応じているのであって、税に関して残る問題は既に負担の公平性をめぐる感情の問題だけなのである。

 ゆえに、増税を訴える側がいま取り組むべきは、恒久的な社会保障財源のための増税が不公平であると感じられてしまう現実への対処にある。この不公平感の問題を全く考慮していないため、増税に批判的な世論に直面するたびに、政治家は「まず自ら身を切る姿勢を示すことで国民にご理解いただく」などと、不公平感の根本的な解消には何もつながらない(むしろ不公平感の再生産にしかならない)、その場しのぎの対応を行ってしまうわけである。言うまでもなく、政治家が公に繰り返し語っていることがその場しのぎで済むことは絶対にない。

 では不公平感をどう解消するのかについては、ここまで書いておいて無責任なようだが、よくわからないというのが正直なところである。きれいごとに聞こえるかもしれないが、税負担は第一義的には自分の生存・生活のためであるということを繰り返し訴えていくこと、そして政府がそのことを政策で「実演」して見せること、それ以外にないだろうと考える。

*1:断わっておくと、ここでは経済学的な観点を敢えて無視して議論を進めている。無視できるものではないと言われそうだが、税は経済学的な問題というより、第一義的には政治社会学的な問題であることは強調しておきたい。

*2:反増税論者の多くも財務省批判や「タイミング」の問題が中心で、よく聞くと最終的には消費税が公平であると考えている場合が多い。

*3:ただし社会哲学的な観点からは、税負担は少々逆進的なくらいのほうが公平という論理は、最終的には必ず行き詰まる。というのは、平等な税負担が政治的・社会的な権利の根拠になってしまうと、税を負担すらできない無能力者の生存権が否定されかねないからである。ひきこもりの人や重度の障害者など、消費する能力すら奪われている無力者も富裕層や健常者と平等な社会的権利を有しているとすれば、平等な税負担を公平性の根拠にすることはできない。消費税が公平だという人は、少なくともこの問題をどこかで頭に入れておく必要があるだろう。

*4:自分も「無駄遣い」に対する憤りが全くないわけではないが、失業、貧困、過労、自殺などの問題に関する報道を押しのけてまで、連日のようにテレビで目にしなければいけないような、緊急を要する深刻な問題とは全く思えないというだけである。

地雷を踏むような状態

 日本の政治的な選択肢は完全に行き詰っているように見える。どんな政策をとろうとしても、政治家にとって地雷を踏むような状態にある。

 たとえば、年々膨れ上がる社会保障費のために税負担を要求すると、「デフレ不況下の増税はとんでもない」と言われ、では金融緩和や財政出動をしようとすると、「国債金利が上昇して財政破綻」とか「これ以上将来世代にツケを回すべきではない」と言われ、公共事業や再分配政策で需要を喚起しようものなら、「国民を馬鹿にしたバラマキ」などと轟々たる非難を浴びてしまう。規制緩和や民営化による成長戦略はリーマンショック以降に説得力を失い、かといって北欧のようにセーフティネットを分厚く張ろうという主張も、そもそも現状の薄い社会保障の財源調達でさえ青息吐息であることを考えると、現実にはほとんど絶望的である。震災による財政圧力が厳しくなったことで、こうした行き詰まりは、これ以上なく悪化していると言ってよい。

 もちろん、ある政策に対して反対があること自体は健全である。しかし、例えばアメリカではオバマ大統領の富裕層増税策をめぐって共和党から激しい批判が起こることが、ある意味で与党民主党の正統性や結束力を強め、議会政治の活性化をもたらすのに対して(もっともアメリカは対立軸が単純すぎて閉口するところも多いが)、日本の政治情勢では消費税にしても金融緩和にしても、それを強く主張すると、まず政権内部から上述のような反対論が出て、政局そのものが大混乱に陥ってしまう。そして政局が混乱すると、「リーダーシップがない」「やりたいことが見えない」という印象を世論に対して与えてしまうことになる。菅直人がまさにこの泥沼に陥ったが、政治家としてこれは絶対に避けたいところである。

 そのなかで、「財政再建」や「税金の無駄遣いを徹底して削減」が、政治家にとってリスクの低い政治的主張として選好されている。議員定数や公務員の削減などは、成熟した市場経済における社会の多様性や豊かさを維持するという観点からは完全に逆行しているものだが、今やこれを主張・実行しない政治家は、あたかも怠惰で不真面目であるかのような烙印を押されかねない。そして、税制や金融でとりうる政策の選択肢が行き詰るほど、野党や国民世論からの批判の少ない「財政再建」と議員定数・公務員の削減への執着を強めていくことになるわけである。菅政権の頃はあまり言われなくなっていた印象のある議員定数・公務員削減論であるが、野田政権になってまた復活しはじめている気配である*1

 もちろん、「税金の無駄遣いを削減すべきだ」と言われれば、それを否定する人は誰もいない。しかし、今の政治家やコメンテーターは、この誰もが否定できない言葉にますます寄りかかるようになり、リスクの高い発言を徹底的に避けるようになっている。増税の必要性を説く側も、それを攻撃する側も、「まず無駄の徹底した見直し」を枕詞にしている。いろんな異なる政策目標を持った勢力が、「無駄遣いの削減」に優先的に取り組むという点に関しては、ほとんど完全に一致団結している状態である。あるいは、個々の政治家にとってはその場の弁解みたいに言っている人もいるのかもしれないが、言うまでもなく政治であるかぎり、メディア上で自ら繰り返し語っていることを実行しないというわけにはいかない。歳出削減・緊縮財政路線への傾斜を押しとどめることは、よほどのことがない限り(つまり普通に達成可能と予想される景気回復と経済成長を実現したくらいでは)無理だろう。

 一部から「財務省の走狗」などと罵倒されている野田首相だが、要するに地雷を踏まないように賛否があまり分かれない政策を慎重に選んで歩いている、という以上の人物ではないように思える。それに、「財政再建」「無駄削減」が日本の政治の中心課題になっている現実があるのだから、政策が財務省寄りになるとしても、あまりに自然なこととしか言いようがない。だからもし、財務省寄りの政策を批判したいのであれば、まず「無駄の徹底した削減」という論理そのものに厳しい批判を加え、それに対して財政出動と再分配強化の必要性を強力に主張すべきであるが、残念なことに需要を重視しているはずの金融政策論者ですら、なぜか増税策に対する批判ばかりに(正直言って無駄な)労力を使っていて、傍目には需要創出という本来の目的がかすんでしまっている状態である。

国債の安定消化には財政規律の維持必要=野田首相
2011年 09月 15日 18:35 JST


 野田佳彦首相は15日午後の衆院本会議で、国債の安定消化には政府が財政規律を維持することが必要だとして、日銀の国債引き受けにあらためて否定的な見解を示した。


 野田首相は、一般論と前置きをした上で「国債の安定消化のためには、まずは政府が財政規律を維持し、市場の信認を確保していく必要がある」と指摘。同時に「現在、国債発行は順調に行われている」とも述べ、共産党志位和夫委員長が提案した大企業による国債引き受けは「考えていない」と答えた。


 日銀の国債引き受けには「戦前・戦中に多額の公債を日銀引き受けにより発行した結果、急激なインフレが生じたことへの反省から、財政法で禁止されている」とあらためて否定的な見解を表明。復興財源は歳出削減や増税などで、現世代で連帯して負担する方針を重ねて示した。みんなの党渡辺喜美氏への答弁。


 法人税に関しては、復興基本方針に実効税率5%の引き下げが盛り込まれているとしながらも、復興増税は「基幹税などを多角的に検討」すると表記した基本方針に言及。政府の税制調査会が複数の増税案を近く提示する予定だが「法人税所得税を含め、税制措置の内容を早急にまとめたい」とした。


 消費税率を10%へ引き上げることを盛り込んだ社会保障・税一体改革に関しては「消費税負担と社会保障のあり方は、消費税の負担のみに着目するのは適当ではない」と主張。「社会保障全体としての再分配を総合的に勘案する必要がある」との考えを示した。


 国民新党下地幹郎幹事長が質問した無利子国債については「大胆な提起」と応じた上で、「失われる利子収入より、軽減される税額の大きい人が主として購入する。国の財政収支はその分、悪化するかもしれない」と否定的な考えを表明。現状の国債発行や消化は円滑だとして「こうした特別な国債が必要あるか、税の公平性や市場経済への影響などの観点から慎重に検討したい」と述べるにとどめた。


 首相はこれまでにも、原子力発電所の新設に否定的な考えを示しているが、現在建設中の原発に関しては「進ちょく状況もさまざま。個々の状況をしっかり踏まえ、立地地域の意見を踏まえながら、個別事案に応じて検討する」方針を示した。

泥臭い政治

 ここのところ、民主党政権の混迷に関して思うところを書いてきたが、きちんと考えてなかった重要な問題として、1990年代末以降に激増した年金生活者や非正規雇用者に対して*1民主党をはじめとする各政党が支持獲得の仕方を間違えてきたことを指摘する必要がある。

 かつて55年体制下では、大雑把に言えば、自民党が財界と農家・漁業者の利害関心を代表し、野党と左派政党が労働組合や教職員・知識層の利害関心を代表していたことはよく知られている。自民党民主党の違いも、ある程度はこの対立構図を引き継いでいる面がある。こうした既存の政党の旧来の支持層は、基本的に「まともな仕事についている」人たちだった。だから、彼らを政治的に動員するためには、農協や労組などの産業団体や職場組織などにターゲットを絞ることが標準的な手法だった。補助金行政や公共事業政策も、それによって恩恵を受ける人が多かった時代は、メディアからの批判があっても現実には有効だった。

 しかし、近年選挙の趨勢を左右している年金生活者や非正規雇用者は、良くも悪くも団体・組織の拘束から解放されている存在である。既存の政党は、彼らを安定支持層へと組織化する手がかりを、依然としてまったくつかめないでいる。政治評論家は、「既成政党への不信が無党派層を生み出している」という解説をしたがるが、実際のところ、単純に構造的な問題として無党派層(あるいは「そのつど支持層」*2)にならざるを得ない人々が増えているだけに過ぎない。

 この年金生活者や非正規雇用者の支持を獲得するために、まず常識的に考えられる戦略は、年金制度の維持・充実と、健全な雇用の拡大を両立させるような政策論を提示することであっただろう。実際、もともと年金制度というものは、その財政運営の健全さが現役世代の雇用と所得の水準に完全に依存している世代間連帯の制度である以上、これはきわめて自然な発想であったはずである。あえて政治スローガンにすれば、「年金と社会保障制度を再建するために、まず雇用の充実に全力を尽くします」というものだろう*3

 ところが、この10数年の間、各政党とくに民主党が実際に採用した戦略は、全く別のものであった。一言で言うと、「利権政治」「既得権」「官僚支配」への批判を大々的に展開することで、年金生活者や非正規雇用者の政治的な疎外感を煽るという戦略である(自覚的というよりは、結果的にそれが世論に受けることに気づいただけではあるが)。こうした批判がメディアを通じて増幅されるようになると、年金生活者は官僚の利権や無駄遣いこそが自らの医療・福祉を危機に晒していると考え、非正規雇用者は公務員や労組が安定した雇用に守られていることが自分たちの苦境の原因だと理解していくようになる。結果として、「まず議員や官僚が自ら血を流せ!」という類の主張に支持が向かうことになる。

 その一方で、支持団体の地道な挨拶回りや選挙カーの名前連呼といった、小沢一郎流の「どぶ板」的手法が相変わらず政治の現場では重視されている。これが、もはや選挙の大勢に影響を与えていないことはもちろんのこと、個々人が当選するための戦術としてすらあまり有効ではなくなっていることは、現場の政治家が一番よく知っているはずである。政治や選挙というのはこういうものだ、という旧来の考え方に政治家自身が強く縛られており、その結果としてどの政党も、年金生活者や非正規雇用者の生活上の関心を地道に汲み上げて、それを安定的な支持層として組織化することに失敗している。

 過去の民主党からみんなの党に至るまでの、「まず議員や官僚が自ら血を流せ!」的な主張は、確かに個々の選挙では年金生活者や非正規雇用者に対する求心力を発揮してきた。しかしそれは、年金生活者や非正規雇用者の本来の利害関心とは対立するはずの「小さな政府」「緊縮財政」志向の政策へと向かわせるだけではなく(デフレ脱却という面からも決して好ましいものではない)、政治家を無意味なパフォーマンスに駆り立てて、政権や政党への支持を不安定で流動的なものにしているという意味で、国民にとっても政治家にとっても、一つもいいことがない。

 現在、既存の政党が年金生活者と非正規雇用者を組織化できず、選挙ごとに圧勝と大敗を繰り返して政治が不安定化していることは、戦前の名望家政党が1925年の普通選挙法以降に非熟練労働者や小作農という新たな有権者の利害関心を十分に組織化できず、やはり選挙ごとに圧勝と大敗を繰り返し、結果的に政治の不安定化を招いたことと、現象としてはよく似ている。当時の二大政党である政友会も民政党も、今振り返っても政策理念の根本的な違いがよくわからない政党であり(その実態のなさは戦後にその痕跡すらなくなってしまったことにも象徴される)、政党間の対立が国民からは「政局」以上の意義が感じられなくなっている点も、今に通じるものがある。

 戦前の失敗の轍を踏まないためにも、政党は年金生活者や非正規雇用者の生活関心を、具体的な政策を通じて代表していくという当たり前の政治を取り戻すことが必要になるだろう。これは、ある意味で野田首相の掲げる「泥臭い政治」であるが、正直なところこの首相の主張や振る舞いに、個人的に泥臭さはほとんど感じない*4

(追記)

 自分は、政党は社会経済的な利害の対立を制度化すべきと考えているが、これは正直ヨーロッパ・モデルに偏りすぎてもいて、保守/革新ともに政党は個々の政治家の後援会の連合体という意味合いが強かった日本の政党との違いは考慮される必要がある。政党支持が緩やかで柔軟であるということ自体は、政治的な自由という観点から見ても決して悪いものではなく、むしろそうした日本の政治文化的な文脈を考慮せずに、「二大政党制」を制度化することのほうに無理があったと言えるだろう。

 その意味で、選挙ごとにそのつど政党支持を無節操に変えるという日本の有権者の態度は、かつては後援会のネットワークを基盤としていた、政党支持が柔軟であるという日本の政治文化の中に、小選挙区制などの「二大政党制」の形式的な制度化を優先したことにも原因がある。つまり、政治理念や経済的利害の対立軸の構築を曖昧に先送りしたまま、「二大政党制」として国会討論や選挙を行えば、必然的に「税金の無駄遣い」や「首相のリーダーシップ」のような、政権の統治能力の是非のようなものが争点になってしまい、これに特定の政党への強い愛着や帰属感を持たない(むしろ公にはそれを隠すことが一般的な)日本の政治文化が重なって、政党支持の流動性の高さにつながっているわけである。

 政局の混乱について、メディアの政治報道が悪いという人もいる。自分も以前はそう考えていたのだが、最近は、そもそもテレビ局や新聞社は民間企業である以上、利益を度外視してコストと手間暇をかけた質の高い政治報道などを期待するべきではないと思うようになった。というより、政治報道番組の質が低いとしても、結局はそういう政治報道番組を好んで消費して生き残らせている、われわれの問題ということに行き着かざるを得ない。

*1:公的年金受給者は2009年で3703万人で、日本国民の3人に1人弱は年金生活者である(平成21年度厚生年金保険・国民年金事業の概況)。そして非正規雇用者は2011年で1717万人で、労働人口の35%を占めている(正規雇用者と非正規雇用者の推移)。単純計算で行くと5400万人あまり、日本の人口の半分近くが、いわゆる旧来の「組織票」からは完全に漏れている層として想定することができる。

*2:http://www.sjc.or.jp/kikanshi/vol098_2.pdf松本正生「2010年参院選−「そのつど支持」層はどう動いたのか」

*3:自分が菅直人周辺を緩く支持していたのは、日本の政治情勢において、この方向性を若干ながらでも有している唯一の勢力だったためである。

*4:自分の理解では、一見「汚い」「非常識」に思えるような手段も用いながら、現実的な政策を採用して結果を出すことが「泥臭い」と考えるのであるが、野田首相の場合は、一般に「まじめ」「手堅い」と評価されているような政策を優先している傾向があるように感じる。野田首相の緊縮・財政再建志向も、それが「まじめ」「手堅い」政策(個人的には全くそうは思わないが)であると世間から評価されているから、という以上のものではないように思える。見た目を気にするという点においては、むしろ前の二人の首相よりも強いものがあるような気がする。