泥臭い政治

 ここのところ、民主党政権の混迷に関して思うところを書いてきたが、きちんと考えてなかった重要な問題として、1990年代末以降に激増した年金生活者や非正規雇用者に対して*1民主党をはじめとする各政党が支持獲得の仕方を間違えてきたことを指摘する必要がある。

 かつて55年体制下では、大雑把に言えば、自民党が財界と農家・漁業者の利害関心を代表し、野党と左派政党が労働組合や教職員・知識層の利害関心を代表していたことはよく知られている。自民党民主党の違いも、ある程度はこの対立構図を引き継いでいる面がある。こうした既存の政党の旧来の支持層は、基本的に「まともな仕事についている」人たちだった。だから、彼らを政治的に動員するためには、農協や労組などの産業団体や職場組織などにターゲットを絞ることが標準的な手法だった。補助金行政や公共事業政策も、それによって恩恵を受ける人が多かった時代は、メディアからの批判があっても現実には有効だった。

 しかし、近年選挙の趨勢を左右している年金生活者や非正規雇用者は、良くも悪くも団体・組織の拘束から解放されている存在である。既存の政党は、彼らを安定支持層へと組織化する手がかりを、依然としてまったくつかめないでいる。政治評論家は、「既成政党への不信が無党派層を生み出している」という解説をしたがるが、実際のところ、単純に構造的な問題として無党派層(あるいは「そのつど支持層」*2)にならざるを得ない人々が増えているだけに過ぎない。

 この年金生活者や非正規雇用者の支持を獲得するために、まず常識的に考えられる戦略は、年金制度の維持・充実と、健全な雇用の拡大を両立させるような政策論を提示することであっただろう。実際、もともと年金制度というものは、その財政運営の健全さが現役世代の雇用と所得の水準に完全に依存している世代間連帯の制度である以上、これはきわめて自然な発想であったはずである。あえて政治スローガンにすれば、「年金と社会保障制度を再建するために、まず雇用の充実に全力を尽くします」というものだろう*3

 ところが、この10数年の間、各政党とくに民主党が実際に採用した戦略は、全く別のものであった。一言で言うと、「利権政治」「既得権」「官僚支配」への批判を大々的に展開することで、年金生活者や非正規雇用者の政治的な疎外感を煽るという戦略である(自覚的というよりは、結果的にそれが世論に受けることに気づいただけではあるが)。こうした批判がメディアを通じて増幅されるようになると、年金生活者は官僚の利権や無駄遣いこそが自らの医療・福祉を危機に晒していると考え、非正規雇用者は公務員や労組が安定した雇用に守られていることが自分たちの苦境の原因だと理解していくようになる。結果として、「まず議員や官僚が自ら血を流せ!」という類の主張に支持が向かうことになる。

 その一方で、支持団体の地道な挨拶回りや選挙カーの名前連呼といった、小沢一郎流の「どぶ板」的手法が相変わらず政治の現場では重視されている。これが、もはや選挙の大勢に影響を与えていないことはもちろんのこと、個々人が当選するための戦術としてすらあまり有効ではなくなっていることは、現場の政治家が一番よく知っているはずである。政治や選挙というのはこういうものだ、という旧来の考え方に政治家自身が強く縛られており、その結果としてどの政党も、年金生活者や非正規雇用者の生活上の関心を地道に汲み上げて、それを安定的な支持層として組織化することに失敗している。

 過去の民主党からみんなの党に至るまでの、「まず議員や官僚が自ら血を流せ!」的な主張は、確かに個々の選挙では年金生活者や非正規雇用者に対する求心力を発揮してきた。しかしそれは、年金生活者や非正規雇用者の本来の利害関心とは対立するはずの「小さな政府」「緊縮財政」志向の政策へと向かわせるだけではなく(デフレ脱却という面からも決して好ましいものではない)、政治家を無意味なパフォーマンスに駆り立てて、政権や政党への支持を不安定で流動的なものにしているという意味で、国民にとっても政治家にとっても、一つもいいことがない。

 現在、既存の政党が年金生活者と非正規雇用者を組織化できず、選挙ごとに圧勝と大敗を繰り返して政治が不安定化していることは、戦前の名望家政党が1925年の普通選挙法以降に非熟練労働者や小作農という新たな有権者の利害関心を十分に組織化できず、やはり選挙ごとに圧勝と大敗を繰り返し、結果的に政治の不安定化を招いたことと、現象としてはよく似ている。当時の二大政党である政友会も民政党も、今振り返っても政策理念の根本的な違いがよくわからない政党であり(その実態のなさは戦後にその痕跡すらなくなってしまったことにも象徴される)、政党間の対立が国民からは「政局」以上の意義が感じられなくなっている点も、今に通じるものがある。

 戦前の失敗の轍を踏まないためにも、政党は年金生活者や非正規雇用者の生活関心を、具体的な政策を通じて代表していくという当たり前の政治を取り戻すことが必要になるだろう。これは、ある意味で野田首相の掲げる「泥臭い政治」であるが、正直なところこの首相の主張や振る舞いに、個人的に泥臭さはほとんど感じない*4

(追記)

 自分は、政党は社会経済的な利害の対立を制度化すべきと考えているが、これは正直ヨーロッパ・モデルに偏りすぎてもいて、保守/革新ともに政党は個々の政治家の後援会の連合体という意味合いが強かった日本の政党との違いは考慮される必要がある。政党支持が緩やかで柔軟であるということ自体は、政治的な自由という観点から見ても決して悪いものではなく、むしろそうした日本の政治文化的な文脈を考慮せずに、「二大政党制」を制度化することのほうに無理があったと言えるだろう。

 その意味で、選挙ごとにそのつど政党支持を無節操に変えるという日本の有権者の態度は、かつては後援会のネットワークを基盤としていた、政党支持が柔軟であるという日本の政治文化の中に、小選挙区制などの「二大政党制」の形式的な制度化を優先したことにも原因がある。つまり、政治理念や経済的利害の対立軸の構築を曖昧に先送りしたまま、「二大政党制」として国会討論や選挙を行えば、必然的に「税金の無駄遣い」や「首相のリーダーシップ」のような、政権の統治能力の是非のようなものが争点になってしまい、これに特定の政党への強い愛着や帰属感を持たない(むしろ公にはそれを隠すことが一般的な)日本の政治文化が重なって、政党支持の流動性の高さにつながっているわけである。

 政局の混乱について、メディアの政治報道が悪いという人もいる。自分も以前はそう考えていたのだが、最近は、そもそもテレビ局や新聞社は民間企業である以上、利益を度外視してコストと手間暇をかけた質の高い政治報道などを期待するべきではないと思うようになった。というより、政治報道番組の質が低いとしても、結局はそういう政治報道番組を好んで消費して生き残らせている、われわれの問題ということに行き着かざるを得ない。

*1:公的年金受給者は2009年で3703万人で、日本国民の3人に1人弱は年金生活者である(平成21年度厚生年金保険・国民年金事業の概況)。そして非正規雇用者は2011年で1717万人で、労働人口の35%を占めている(正規雇用者と非正規雇用者の推移)。単純計算で行くと5400万人あまり、日本の人口の半分近くが、いわゆる旧来の「組織票」からは完全に漏れている層として想定することができる。

*2:http://www.sjc.or.jp/kikanshi/vol098_2.pdf松本正生「2010年参院選−「そのつど支持」層はどう動いたのか」

*3:自分が菅直人周辺を緩く支持していたのは、日本の政治情勢において、この方向性を若干ながらでも有している唯一の勢力だったためである。

*4:自分の理解では、一見「汚い」「非常識」に思えるような手段も用いながら、現実的な政策を採用して結果を出すことが「泥臭い」と考えるのであるが、野田首相の場合は、一般に「まじめ」「手堅い」と評価されているような政策を優先している傾向があるように感じる。野田首相の緊縮・財政再建志向も、それが「まじめ」「手堅い」政策(個人的には全くそうは思わないが)であると世間から評価されているから、という以上のものではないように思える。見た目を気にするという点においては、むしろ前の二人の首相よりも強いものがあるような気がする。