「ポピュリズム」とは何を指すのか

 先週「大阪W選挙」で圧勝した橋下前大阪府知事の政治手法は、「ポピュリズム」と称されることが多い。「ポピュリズム」は政治学者による研究の蓄積はあるようだが*1政治学の教科書や事典でも物によっては項目がなく、一般には「有権者をバカにした人気取り政治」という否定的な意味合いがあるので、個人的にはこの言葉をほとんど使わないようにしている。しかし「橋下人気」の盛り上がりで、「ポピュリズム」の言葉をあちこちで目にするようになるにつれて、「ポピュリズム」と名指される事態が何であるのかについてあらためて気になったので、ここで簡単に触れてみたい。

 「ポピュリズム」は、れっきとした民主主義をめぐる概念の一つである。たとえば、民主主義の考え方は、大きく二つに分けることができる。一つは、様々な利害や価値観をもった個人や集団の間の対立や話し合い妥協のプロセスであると考えるものと、もう一つは住民や国民全体が共有すると想定できる利害や価値観を可能な限り実現していくものであると考えるものである。前者における政治家の役割が、個別の理念や利害を組織化して議会において代表していくことにあるのに対して、後者における政治家は「国益」などの全体的な利害の観点から、それに反する価値観や勢力の存在を取り除いていくことが重要な役割になる。つまり、前者における「民意」があくまで多様な価値・利害の交渉と妥協の結果であるのに対して、後者は全体としての「民意」の存在をあらかじめ前提とし、その「民意」の名の下に個別の利害や価値観を偏ったものとして否定あるいは軽視するものである。前者を「多元主義」的な民主主義、後者を「一元主義」的な民主主義と呼ぶことができるが、「ポピュリズム」は言うまでもなく後者の一元主義的な民主主義に属するものである。

 しかし当然ながら、一元主義的な民主主義の全てが「ポピュリズム」と呼ばれている、というわけでは決してない。歴史上の革命運動、反植民地独立運動、戦時下の好戦世論などはこの定義に当てはまるが、これらは「ポピュリズム」とは呼ばれない。何故かと言えば、これらの場合は「少数の特権的・独裁的な政治勢力」と「それに暴力的に抑圧される大多数の国民」という政治的な構図が存在しているか、国民全体が共有する価値や他の全てに優先する政治的目標がきわめて明確で、いわゆる「ポピュリズム」とは異なり、現実的な実体のある民主主義であると理解されているからである。

 当然ながら今の日本には、こうした一元的な民主主義が当てはまる現実的な条件は存在しない*2。例えば、中国の共産党に相当する程度の特権支配勢力は明らかに存在しないし、「国益」「民意」が何かというのも複雑化して簡単に特定できないものになっている。「経済成長」は依然として不可欠だとしても、もはや個々人の些細な利害関心を押しつぶしてしまうほどの強力なものではなく、あくまでそれがないと財政健全化や社会保障制度の維持がより困難になるという、消極的な位置づけになっている。一言で言えば、「民意」が多元化・複雑化して民主主義が「手間がかかる」ものになっているのであるが、それ自体はある面において自由で成熟した社会が実現できていることの証明であって、決して悪いことではない。

 問題は、それにも関わらず、2000年代以降になって「国益」「民意」の名の下に官僚・公務員の些細な「特権」「既得権」が攻撃されるという一元主義的な形の民主主義が、ますます強まっていることであろう。官僚・公務員に関する問題の一つ一つは確かに不愉快なものであるが、たとえば「天下り」を全廃したところで、デフレ脱却や社会保障の再建・強化、過労・貧困問題の解消にとって一体何が前進するのかを真面目に考えはじめると、今の官僚批判の盛り上がりはやはり何かを間違えているとしか言いようがない *3。それは、護送船団方式財政投融資の仕組みが強固に生き残っていた90年代までならともかく、それらが明らかに解体もしくは弱体化している現在になって、そうした官僚批判がかえってエスカレートし、しかもその批判の焦点も給与水準や年金格差といった(つまり解決したところで効果も薄い)小さな問題に当てられていることにも象徴されている*4。おそらく「ポピュリズム」という言い方が登場するようになるのは、こうした政治が盛り上がるような局面である。つまり、一義的な「民意」の存在を事前に想定する形の民主主義が、現実には不可能あるいは困難になっているはずなのにも関わらず、軍事・外交あるいは財政上における「国家的危機」が過剰に喧伝されたり、あるいは一部の特権勢力とそれに抑圧される国民という対立図式で政治問題が語られたりして、それがなぜか世論の広範な支持を得てしまうような現象が、「ポピュリズム」と呼ばれているのだろうと思う。

 ただし、その現象を「ポピュリズム」と呼ぶべきかどうかについては、やはり依然として躊躇がある。政治学者がどう定義しようと、「ポピュリズム」には「愚民政治」「大衆迎合主義」という語感を払拭することができない。たとえば「反橋下」の急先鋒の政治学者である山口二郎氏が、「地域で人とつながる運動や仕事をしている人の中で、橋下をほめる人はいない。・・・寄る辺ない、孤立した民衆が橋下に自暴自棄的な希望を託している。コミュニティにつながっている人には橋下の危険性が分かる」と、「橋下人気」の背景を分析しているのが典型的であるが*5、「ポピュリズム」という言葉を好んで用いる人は、支持者が正常な政治判断ができないほど「不幸」「異常」な状態に陥っている、と考えたがる傾向がある。

 元から橋下を不愉快に思っている人は、橋下支持者がまともな精神状態じゃないという、こうした解釈に深く共感する(あるいは安心する)のかもしれないが、個人的には全く納得できるものではない。例えば、山口氏の解釈に従うと大阪府民の過半が「自暴自棄」状態にあるということになるが、これはとても真面目に受け入れられるものではない。むしろもっと素直に、普通の真面目な有権者の「健全」な問題意識のなかで、橋下が魅力的で説得力のあるものとして支持されていると理解されるべきである。たとえば、官僚・公務員の「既得権」や「無駄遣い」こそが今の日本の根本問題であると大阪府民(ひいては日本の世論全体に)に理解されているとすれば、その問題をもっとも歯切れよく批判・攻撃する橋下が支持されるのは当然なのである。もし「ポピュリズム」を批判するというなら、民主主義を多元化していくこと、つまり経済・生活上の関心に基づく多様な利害関心を組織化し代表していくという方向で民主主義を再構成することが必要になるが、今の日本では官僚・公務員の「既得権」「無駄遣い」が、すべての争点に優先すべき政治課題であるかのように扱われていることで、これが完全に妨げられている。

 その意味で失望したのが、山口氏ら「反橋下」派の知識人たちが、生活関心の組織化という地道で泥臭い課題に取り組むのとは全く逆に、愚にもつかない頭でっかちの「独裁」「ハシズム」批判に堕して、真面目な有権者をかえって遠ざけてしまったことである。橋下を「ポピュリズム」と批判する側こそが、それに輪をかけたポピュリズムに陥っていたとしか言いようがない。

(追記)

 この文章を書いた自分の問題関心は、「ポピュリズム」そのものというよりも、現在の日本で一元的な「民意」を前提とした民主主義が、周辺的な少数派に対する抑圧的・差別的な政治を強化するものでしかないという点にある。植民地政府や独裁体制に対する抵抗運動や高度経済成長の時代であれば、「独裁からの自由」や「貧困からの脱却」を一元的な「民意」として仮定しても、それが同時に少数派の権利を引き上げることにもなった。しかし今は、日本を含む現代の先進諸国のように、全ての国民の自由・平等を抑圧している独裁勢力もなければ、全ての国民の生活水準を引き上げる高度成長も現実的ではなくなっている。こうした条件の下で、一元的な「民意」の名の下に政治を行えば、必然的に周辺的な少数派の利害関心を軽視・排除するような民主主義に陥ってしまう。そのことは、朝鮮学校生活保護受給者に対する橋下の厳しい態度に、如実に表れていると言えるだろう。

 民主主義の意義は、声を上げる能力すら奪われたいかなる周辺的な少数派でも、政治的な代表の権利を持ち、その経済生活上の利害が配慮される可能性を有するという点にあると考えている。大層なことを言いたいのではなく、「民意」の名の下に行われる差別や排除をやめろと言っているのであり、それは「ポピュリズム」などという言葉を持ち出さなくても批判できるはずのことである。

 ちなみに個人的に腹が立つのは橋下自身というよりも、「賛成するかどうかはともかく、逃げ回っている野田さんに比べるとメッセージがありますよね」などという逃げ道をつくった言い方で持ち上げる、ジャーナリストや政治評論家(というか政局ウォッチャー)たちである。まさに、社会を変える意欲もなければ倫理感もなく、政治がどう転んでも批判されないように、世論に薄く弱く迎合することで保身を図るという、最も堕落した「ポピュリスト」と言えるだろう*6

(「生活関心の組織化」について)

 「生活関心の組織化」というのは誤解を招きやすいが、圧力団体をどんどん組織化しろと言っているのではなく、政治家は有権者に対して生活上の苦労や不安が解消するような政策を具体的に示すべきだと言っているにすぎない。さらに言えば、自分の生活上の利害関心の問題を中心に政策を判断するような意識付けを、有権者に対して施していくことも必要である。簡単に言えば、有権者は政治家の主張に対して、「『維新』『改革』って何それ?食えるの?」と、常に突っ込みを入れられるようになるべきなのである。

 もちろん人々の生活上の利害関心は多様だから、どのような政策もある特定の階層や集団の利害関心に偏ったものにならざるを得ないが、それでいいのである。たとえば、障害者運動の現場から出発して、国全体の社会保障制度の再建・強化を構想していくことや、ビジネスの現場から出発して適切な経済政策が何かを考えていくことは、決して矛盾している話ではない。重要なのは、現場の声を汲み上げる政治家やメディアと、官僚や学者などの専門家との連携ができているかどうかであって(現状この連携がズタズタになっていることは否めないが)、ある政策が何らかの特定の集団・階層の利害関心から出発していることは別に当たり前のことであり、むしろそうあるべきだとすら言ってもよい。

 逆に言うと、いきなり「日本」や「大阪」といった全体を主語にした政策は疑ってかかるべきである。民主的な社会である限り、どの政治家や政党も特定の層や集団の利害関心に偏ることは決して避けられない。「日本再生」「大阪維新」などというフレーズは、そうした政治家や政党の特殊利害を悪質な形で隠蔽し、その利害を共有しない人たちにまで無理やり押しつけようとするものでしかない。

*1:http://synodos.livedoor.biz/archives/1717403.html 吉田氏の議論は勉強にはなるが、9分9厘否定的な文脈でしか言及されない「ポピュリズム」を、一般的な分析概念として用いるのは、やはりあまりに無理があるように思う。

*2:ただし、東日本大震災に関連する政治問題については一部存在する。

*3:行政の無駄を削減すれば社会保障の財源がいくらでも出てくるという論理も、民主党政権がその誤りを見事に「実証」してしまった。

*4:むしろ、財政投融資のような大きな話よりも、こうした細かな賃金・給付水準の格差の問題のほうが、人々のルサンチマンをより喚起しやすい。

*5:http://twitter.com/#!/260yamaguchi/status/137893858871750656

*6:山口二郎氏はこういう人たちに比べればはるかに誠実ではある。