「絆」の戦後史

 漢検今年の漢字として「絆」が選ばれた事に関して、どこかの新聞で、いま人と人との結びつきとして理解されている「絆」は昔は否定的な意味であったという記事を読んで、「へえ、そうなんだ」と思い、ではいつ頃から肯定的な意味に変わってここまで普及するようになったのか、ということが気になって国会議事録や朝日新聞の記事タイトルなどを検索してみた。単に暇な時に興味があって調べたというもので、特に言いたいことや結論があるというわけではない。

 確かに新聞や議事録などにおける1960年代頃までの用法を見ると、「絆創膏」「脚絆」(ゲートル)など以外には、身動きが取れない環境を指して、「羈絆(きはん)」などの意味で使われていることが多い。また、「封建的な絆」「悪弊のきずな」とか、束縛や癒着・結託といった明確に否定的が意味が込められることも少なくない。「絆を断ち切るべき」という表現も散見される。これは、家畜を繋ぎ止める綱という「絆」の原義を踏まえれば、自然な用法と言えるだろう。

 その一方で、「アジア諸国とのきずなをより強固なものに」など、外交問題の文脈では国と国との緊密な関係を指して「きずな」が肯定的に用いられていた。もともと国際政治的な制約条件を「羈絆」と表現することがよくあったので、そこから派生した用法であろう。今につながる「絆」の肯定的意味は、この外交問題における用法を起源にしていると理解することもできるが、使用される場面はごく限られており、一般の人には(意味はわかるとしても)それほど馴染みのある言葉ではなかった。そのことは、「絆」という(特に今年は嫌というほど目にした)字が当用漢字に入っていないことにも象徴されている。

 家族・友人・地域の「絆(きずな)」を肯定的な文脈で語るようになるのは、おそらく1980年代からであるが、「地域の絆」の重要性を再認識すべきであるとか、忘れかけていた「夫婦の絆」を思い出したとか、せいぜいその程度のものである。また「絆を断ち切りたい」など、依然として否定的な文脈でも用いられる言葉であり、頻出度も決して多いものではない。

 では、「絆」が大衆化された形で、特に日本社会の秩序規範として積極的に用いられるようになったのはいつごろなのか。それを知るために、朝日新聞の記事検索サービスを使って「きずな」「絆」が用いられているタイトル記事数を調べてみたが、案の定この10数年で急増している。戦後から1989年までの44年間で「きずな」「絆」が出てきたタイトル記事は159件だったのが、1990年から2011年では2594件で、東日本大震災のあった2011年に限って言えば593件である(グラフからははみ出ている)。「家族の絆(きずな)」という言葉が入ったタイトルの記事は、戦後から1989年までたった3件だったのが、1990年から2011年まで203件(今年は17件)で、今年を例外としても、増加するトレンドに変化はない。

朝日新聞の「絆」「きずな」のタイトル記事数の変遷(1984−2011)

 調べる前は、阪神大震災地下鉄サリン事件のあった1995年あたりがターニング・ポイントだろうと、漠然と考えていた。実際、95年には阪神大震災で救助活動に当たった警察官の手記が『絆』というタイトルで出版されているように、それなりに重要な年である。しかしグラフを見ればわかるように、もっと決定的な時期は、「少年犯罪」「キレる若者」がメディアを賑わしたり、企業の「リストラ」が大規模に行われたりして自殺者が年間3万人を突破するようになった、1997年から98年にかけてである。90年代半ば以前と違う傾向があるとしたら、以前は「絆」は好き嫌いにかかわらず厳に存在するものであったのが、90年代後半になると「絆」の不在や崩壊に対する戸惑いや不安が語られるようになっていることだろう。出てくる文脈も、高齢者夫婦の介護や児童虐待など明らかに深刻な話題が多くなっており、こうした問題を背景に2000年代以降も「絆」が盛んに用いられていくことになると理解できる。それは以前のような、経済成長の中で忘れかけていた家族や故郷の「絆」を想い出そう、という牧歌的なものでは全くなくなっている。

 「絆」と意味が重なる概念に「連帯」がある。以下は年代順に両者の登場する記事タイトル数をグラフ化したものであるが、70年代以降に左派系の市民運動が盛り上がって「連帯」の使用例が増えたようだが、その後次第に漸減して、2000年代に「絆」と使用頻度が完全に逆転している。

朝日新聞』「絆(きずな)」「連帯」タイトル記事数の変遷(年代別)

 さらに、「社会」「市民」などいかにも「連帯」が相応しい概念もが、近年は「社会の絆」「市民の絆」に取って代わられている傾向がある。以下の表は「社会」「市民」との関係で「連帯」の「絆」のいずれが用いられているのかの用例数を比較したものである(『朝日新聞』『AERA』『週刊朝日』のタイトル・本文を検索)。

「社会(市民)の連帯」か「社会(市民)の絆」か

 90年代以前は「社会」「市民」の「絆」という表現は極めて少なく、1998年に当時社民党辻元清美が「市民の絆・大阪」という市民団体を立ち上げているが、これは当時においてはまだ例外的なものであった。それが2000年代を通じて徐々に「連帯」と「絆」の差が縮まり、この2年はついに逆転されている。ちなみに、今年「連帯」が微増しているのは震災があったからというより、菅政権が一時期「社会連帯税」構想を打ち出していたためである。

 この結果を見ると、長い間にわたって「連帯」を掲げてきた福祉国家論者や社会保障の専門家にとって、東日本大震災における「絆」の爆発はあるいは逆風なのかもしれない。「税と社会保障の一体改革」はさすがにないが、近年は政府の審議会や報告書などでも「絆」が用いられることが多い*1 。なぜ「連帯」ではなく「絆」が好んで用いられるようなったのかについては、正直難しい問題で今の段階では何とも言えない。

 結局これでお前は何が言いたいのかと言われると少し困るのだが、現代日本社会の最も直近の起源が1997年から1998年の辺りにあり、戦後日本の経済・雇用・家族のシステムが解体していく(少なくともそう観念された)時代と歩調を合わせる形で求められるようなった言葉が「絆」であるということを、つまらないようだけど最低限確認しておきたい。

(追記)

 3枚目のグラフを若干修正。細かい内容の分析までは手が回らなかったので、あるいは誤解や単純化があるかもしれない。

(追記2)

 ブックマークでご指摘があったように、これは『聞蔵?』の検索能力に完全に依拠しているので、あるいは偏っている可能性がある。また記事内容の検索ができるのは1984年以降とそれ以前で、検索精度が落ちているのかもしれない。ただこの問題を解消するためには、それこそあの分厚い縮刷版を全て引っ繰り返して調べる必要があり、場末のブログということでなにとぞご容赦願いたい。

(参考)

 文章の内容も調べてみたので掲げておく。『聞蔵?』が1984年以降しか記事内容を検索できないので、それ以前は国会議事録からの引用になっている。

衆議院商業委員会 - 昭和22年11月12日


○冨吉政府委員 陳情の内容は板ガラス工業が財閥の独占事業であつて、これをめぐる卸売業者が從来特殊の因縁情實関係によつて結びつけられており、小売業者の介在を許さないばかりか、小売業者を排撃する結果が配給面に現れておるが、政府はこれらの悪弊のきずなを断ち切つて、封建的支配勢力から脱却したいわゆる、民主的にして需要者本意の配給機構を打立てようというのが陳情の御趣旨でありまして、この点至極ごもつともなる御陳情と思料される次第であります。

衆議院内閣委員会 昭和30年05月12日


○森(三)委員 ・・・先ほど、次長の答弁を聞いておりますと、日米合同委員会あるいは施設委員会等の使用条項等に対する解釈の問題等が出ておりますが、・・・・要するに日米安全保障条約、行政協定に基くところの大きなきずなが、こうした問題を起している。ところがそれに拘束されておるところの調達庁当局は、全く事務的に、アメリカの便宜をはかるというような態度にしか出ていないということを、先般来のあなたの答弁を聞いておってつくづく私は思わされておるのであります。

衆議院大蔵委員会 昭和39年06月17日


○只松委員 ・・・・・一方指導監督、生殺与奪の権を持ちながら、中正になれ中正になれというのは、これはちょうど親子の間の関係のようなことを、あなたたちがあくまでも権力を握って、封建的なきずなの中で中正を求めていこう、こういうことをしているのと同じなのです。違いますか。だからほんとうに中正を求めようとするならば、そういう従属関係ではなくて、この社会、民衆というのは平等が原則なのです。

衆議院文教委員会 昭和47年03月15日


○小林(信)委員 武器が強奪され、そして軍資金が集められておるということは警察でもわかっておったはずです。しかも、こういうことがあとでわかったと言われましたけれども、いまの森というものの「党は不要、軍に結集せよ」ということばの内容には「革命家は人民全体に奉仕するのだ。親、兄弟とのきずなを断ち切り、プチブルたちの非難、批判に耐えなくてはならない。そのためには、狂人になることだ」気違いになることだ、こういうようなものがつぎ込まれたわけです。

参議院予算委員会  昭和48年03月23日


国務大臣田中角榮君) まあ、一言にしては申し上げ得ないのでございますが、やっぱり享楽主義というか、これは一つには、もう結婚すれば子供ができる、できた子供は自分の命にかえても育てなければならないというのが日本人の美徳であったはずでございます。まあ、昔も暗い事件として、農村において古い機構の中では間引きをしたり、口減らしをしたりという非常に悲しい物語がありますが、しかし、戦後のほんとうに困難な、生きられるか食えないかわからないときにはこんな風潮はなかったんです。これは、ほんとうに戦後の困難なときには、とにかく死ぬならともに死のうというような親子のきずながあったわけですが、このごろ非常に急速にこういう問題が起きておると、これはいままであったんだけれども表に出なかったという問題じゃありません。これは数からいっても、その性質や状態からいっても、非常に異常な状態にあるということは、これはもうひんしゅくをするというような状態ではなく、ほんとうにどこかが間違っておるんだという感じがいたします。

参議院予算委員会 - 11号  昭和56年03月17日


渡部通子君 ・・・ボランティアについて多少お伺いをいたします。新しい憲法のもとで社会福祉という言葉が使われるようになりましてから三十四年になりますが、高度成長の過程での都市化した社会、家族化の傾向の中で国民は地域から離れ、家庭のきずなを忘れた人々も多くつくり出してしまっているのが現状だと思います。残念ながら福祉という意味が国民の一人一人の物に完全にはなっていないのではないか、こういう感がいたしてなりませんが、厚生大臣の福祉に対する哲学をひとつお述べください。

災害に生かせ、住民のきずな(声)  朝日新聞1984年10月08日 朝刊


 エプロン姿の主婦が、車の荷台から毛布にくるまった老婆を背負い、校庭に敷かれたゴザまで大事そうに運んだ。ゴザの上に座り込んだ老婆は放心したかのようだった−−長野県西部地震、被災地王滝村の様子を伝えた映像の一コマである。
 「家族や村民の絆(きずな)がしっかりしとったで、まだ助かった」。地震を振り返り、村の主婦はこう言った。私は、この言葉の中に今回の地震の教訓の一つが含まれていると思う。
 もし、東京で大地震が起きたら……。この街に近所付き合いはあまりない。地域と縁の薄いアパート住民が多く、とても絆は期待できない。その時、混乱の中で弱い老人たちは、逃げることもできず見捨てられてしまわないか。

長女とのきずな断って(ひととき) 1989年12月14日 朝日新聞朝刊  


 ・・・・・・・・・・・

 数年前のことである。僚友として接して来たつもりの長女が私と衝突して音信を断った。私は苦しみ、病んだ。25年の職歴と誇り、社会人としての信用も経済力も、決して私の自立ではなかった。もっと人間としての根源で独り立ちしていなかったことを思い知らされた。
 そんなある日、職場から帰った夕やみの庭で、長女の育児日記と母子手帳を焼いた。初めて母となる甘い満足を一ぱいにちりばめたはずの3冊を読みかえしもせずに。そして、見えない長女とのへその緒を切った。その炎は私の余生の確かな肥料となった。私という育ち遅れた筍(たけのこ)は気付かなかった最後の皮を振り落とした。その煙の力で。

親子の絆(子どもの周辺) 1994年01月19日 朝日新聞朝刊 奈良


 今、私の心の中を木枯らしが吹きすさんでいます。父親が子どもに殺傷されるという事件が続けて報道されたからです。
 なぜこのような悲しい事件が起こったのでしょう。親と子は強い絆(きずな)で結ばれているはずです。現にこれらの事件の親子も仲の良い親子だったのです。
 ・・・小さいころからさまざまな経験をし、失敗したり成功したりしながら、自己を知り、未来を選択してゆく力を身につけてゆくのです。そうした子どもの成長を見守り、支えてゆく親の姿に、子どもたちは人生の先輩としての信頼と、自分を信じてくれる深い愛情を感じ、強い絆を結んでゆくのだと思います。
 もし、学業成績だけにこだわり、親の幸せ像だけを押しつけるのであれば、そこに強い絆が生ずるわけはありません。見せかけの絆ではなく、お互いに信じ合い、尊重し合う中に、本当の親子の絆が結ばれるのではないでしょうか。
 (県高田児童相談所次長 沖本雅彦)

焼きイモと家族の崩壊 山口文憲(店頭拝見) 1997年06月29日 朝日新聞朝刊



 東京郊外の、とある駅ビルの階上にある大型書店の昼下がり。土地柄なのか、この時間に本屋でひまをつぶしているのは、家に居場所がないという感じの男の老人ばかりなのだが……。
 きのうもそこへでかけていくと、そんな老人の一人が、店内の柱に張ってあるブックフェアのポスターの前に立ち止まって、その文句を読んでいた。


 いま、「家族」に何かが起こっている。
 激増する離婚、
 溝を深める親子、
 虐待される子供たち、
 孤立する老人たち……。
 (中略)
 家族の絆(きずな)を取り戻し、深めるにはどうしたらいいのでしょうか――。


 みればフェアのタイトルは、『家族の崩壊・家族の絆』である。孤独な老人たちの息抜きの場でこういう催しをやるというのも、なんだか心ない感じではあるが……。これは十二の出版社が参加する連合企画で、各社がこれと思う本を五点ずつ出品しているらしい。

 1960年代までは、外交問題の文脈以外では、「束縛」「従属」「癒着」という意味で「絆」が用いられることが多く、70年代後半以降になって高度経済成長のなかで見失われた家族や地域の「絆」を見直そうという言説が次第に登場し始めている。そして1990年代半ばになって、いまにつながるような、「崩壊」した家族や地域の「絆」を取り戻そうという主張になっている。言説の変容と言及数の増加は微妙にズレており、基本的に前者が先行している。

*1:「各自治体において、日本の伝統や文化等を含めて絆を問い直そうという気運が高まっている。生涯学習は、まちづくり・人づくりを担うものであり、日本の文化や伝統を含めた絆を再構築する視点が必要ではないか。また、地域や家庭における学びを支えていき、保障していく視点が必要ではないか。」(生涯学習・社会教育の振興に関する今後の検討課題等について