現代日本の「テレビ政治」

 日本の政治動向を観察するにはどこを中心に見ればよいのか、と問われれば私は国会ではないことはもちろん官僚組織ですらなく、少し迷いつつも「テレビ」と答える。誤解を恐れずに言えば、この10数年を振り返ると、テレビの政治報道番組や討論番組などで主流となってきた主張の通りに、全体として政治が動いてきた印象がある。

 テレビは既に古いメディアであるかのように言われることが多く、確かに産業としては縮小・衰退局面に入りつつあるのかもしれないが、現実政治においては決してそうではない。若い世代の「テレビ離れ」が指摘される一方で、人口層が多く政治的にもヴォーカル・マジョリティである年金生活者層においては、むしろ「テレビ漬け」とも言える現象が進んでいる*1。「テレビばっかり見てないで・・・」という、かつての親の子どもに対する小言は、今や高齢者層にこそ当てはまる言葉になっている。

 1990年代初めくらいまでは、テレビで政治動向が理解できるということは基本的になかった。「利権政治家」と呼ばれてテレビで連日叩かれている人物が、いざ選挙になると圧勝で当選というのは、田中角栄に限ったことではなく、どの地域でも極めてありふれた光景であった。1989年の消費税導入を巡っては、テレビでは賛成派はほとんど「非国民」の扱いであったが、自民党も選挙で敗北したとは言えその政権基盤を揺るがすほどのものではなく、今から見ればごく限定的なものであった。こうした時代にあっては、新聞やテレビを見ても政治を理解できるということは基本的になく、むしろ政治を理解することとは、地方で隠然たる声望を持った政治家や、その背後にある土建業界や農協、後援会などの地縁組織といった利益団体の動向と、そうした利害関係者を調整していく官僚組織の役割を観察していくことにほかならなかった。

 しかし、こうした形で政治を理解することが可能であったのは、安定した仕事に従事している現役労働者が社会の圧倒的マジョリティであったからである。つまり、人々が仕事を通じて関わっている団体・組織の利害関係の網の目を解読することで、政治の動きも概ね把握できたのである。しかし2000年代以降、仕事を通じた利害関係の網の目から「自由」になった年金生活者が増大し、自ずと家でテレビを見る時間が増えたことで、テレビの政治世論形成における役割が圧倒的に大きくなっている。結果として、近年はテレビで評判を悪化させた政治家が選挙で圧勝するという現象はごく限られたもの(鈴木宗男亀井静香など)になり、選挙の動きを見ても、2005年の郵政解散選挙以降、07年の参院選、09年の衆院選、10年の参院選と、選挙結果が事前のテレビの政治報道における雰囲気を、ほぼ100%再現するような形になっている*2

 インターネットが当たり前すぎる日常になっているとつい忘れがちであるが、日本の政治世論の中心である高齢層の過半にとって、依然としてインターネットは理解不可能な別世界のメディアあり続けているのが現実である*3。インターネットの情報収集が中心になっている我々にとって、新聞・テレビ発の情報が素朴に信頼できないことは自明すぎる前提であるが、高齢世代にとっては新聞やテレビにおける政治報道が政治に関する情報源のほぼ全てであり、そうした既存のマスメディアに対して全体的に高い信頼を置く傾向が強い。

 もちろん、テレビの政治に対する影響力が強くなることそれ自体は、別にいいことでも悪いことでもない。問題は、テレビに出演している政治評論家やジャーナリストたちの質が、そうした変化に全く追いついていないことである。たとえば今でも、官僚による規制や利権の構造とか、「既成政党VS無党派層」の対立とか、どの党の支持団体の動向とか、現在の日本の政治全体の流れを理解するにはもはや全く適切ではない旧態依然の図式で*4、視聴者相手にもっともらしく政治を解説している人が多い。そして、かつて鳩山元首相や菅前首相を「わかりやすい」と持ち上げ、「民主党に一度やらしみてよう」となどと語っていた同じ人が、いま民主党政権を嘲笑的に批判しているが、これは、テレビの影響力の乏しさゆえに無責任な言動が許されていたかつての時代から、テレビの政治報道の現場の意識が全く「改革」されていない証拠と言えるだろう。

 では、テレビが自らの影響力を真摯に受け止めて変わっていけばいいのかというと、必ずしもそう単純には言えないところに問題の難しさがある。例えば、1990年代まではそれなりに報道されていた過労死や過労自殺の問題がほとんど報道されなくなり、むしろ最近のバラエティ番組の多くが(いわゆる「ブラック企業」を多く含む)企業の宣伝番組と化していることが示しているように、テレビは世論形成に対する影響力を強めているにも関わらず、業界としての力が弱体化しているというジレンマがある。つまり、テレビ業界が自らの影響力を自覚したとしても、それをコントロールしていく能力を現実にはほとんど持ち合わせておらず、むしろその影響力を利用しようとする企業家や在野の評論家・ジャーナリストたちの草刈り場となっている状態なのである。

 自分はメディア論は全くの不案内だが、今の日本で研究対象として注目されるべきメディアがあるとしたら、ツイッターフェイスブックなどではなく、やはり依然としてテレビ(あるいは大手新聞)であることは疑い得ないと思う。「アラブの春」と「フェイスブック」の関係を指摘する解説に見られるように、新しいメディアの出現が政治・社会の変化をもたらしたと理解したがる人は少なくないが、正直なところ「それ本当かよ」と思うことが多い。むしろ、まずは社会に深く根を張った既存のメディアの役割の重要性という、当たり前の話から始めるべきだろう。

(追記)

 既に指摘されているように、世代とメディア・政治意識の関係に関する実証的な調査などについては、こちらの情報や理解が不十分であると思われるので、色々と批判をいただければ幸いである。当然ながらテレビは若年層にとっても中心的なメディアであり、インターネット上でも「みのもんた」をより過激化したような意見や主張は少なくないから、テレビ報道と「テレビ漬け」の高齢層だけに現在の日本における政治風景に対する責任があると言いたいのでは決してないが、結果としてそのように読めるような記事になってしまっているかもしれない。

(追記2)

 自分がこういうエントリを書いたのも、官僚・公務員の「利権」「既得権」が現在の日本の政治経済の根本問題であるかのような、全く不適切な理解が世論に広まっていて、そのことが政局の混乱や経済・社会保障政策の停滞の背景にあるという問題意識に基づいている。政権与党がどんな政策をとろうとしても、「税金の無駄遣い」「まず自ら身を削れ」と批判されて、そのたびに停滞してしまうのは、官僚・公務員の「利権」「既得権」に対する世論のルサンチマンが背景にある。

 そして、こうした不適切な理解の中心にいるメディアは、明らかにテレビの政治報道である。そこで、テレビの影響力を強めている要因を探ると、一つには仕事を通じた「しがらみ」から解放され、一日の多くをテレビに費やすようになった年金生活者層の増大が挙げられるのではないか、と考えたわけである。もともと日本では、何となく寂しいからという程度の理由で、特に見たい番組もないのにテレビをつけっぱなしにしている家庭が多い。

 よく「ポピュリズム」と言われるが、自分はそう表現することには強い抵抗感がある。連日のように「天下り」や「年金の官民格差」のニュースを見続けていれば、そして逆に官民に共通する深刻な過労の実態がほとんど報道されていなければ、真面目な人ほど橋下市長のような政治家を支持するようになるのは、別に当たり前のことである。自分が腹を立てているのは、こういう真面目な人たちの意識を誤った方向に誘導して、自らの自己顕示欲のための食い物にしている(自覚のない人を含めて)人々である。

(「橋下人気」とテレビについて)

 テレビと日本の政治の関係を象徴する現象が「橋下人気」だろう。「橋下人気」の背景をどう理解するにせよ、まず出発点となるべき認識は、彼が特に60代以上の古参のテレビ・ジャーナリストやニュース番組の司会者たちに、こぞって大絶賛されているという事実である。インターネット上では、彼に対する評価は完全に二分しており、メディアによっては批判が大勢のところもある(たとえばツイッター)のと比べて、高齢世代のテレビ・ジャーナリストたちの橋下への全面的な傾倒はきわめて顕著であり、高齢層は保守的であるという旧来の通念からすれば異様ですらある。

 このことが意味しているのは、橋下の問題関心や社会に対する認識が、親ほど年が離れている高齢世代と、ほとんど共通しているということである。生きている時代や場所が違えば、問題意識も自ずと異なるのが当たり前であるが、橋下に関しては、政治的な問題意識が高齢世代のテレビ・ジャーナリストたちのそれと全くと言ってよいほど同じである。実際、彼の話を聞いていてつくづく感じるのは、現在の日本の政治・社会に対する理解の仕方が、2000年代以降の「格差」「貧困」「労働」に関する「新しい」理解を吸収してきた我々にとって、この10数年がまるで何もなかったかのように「古い」ことにある。「新しい」のは、あくまでその攻撃的な言動(および一部の個別政策)であって、彼の語る社会認識そのものに新しさはほとんどない。

 おそらくこうした「古さ」が、橋下が古参のテレビ・ジャーナリストに支持される理由なのだろうと思う。自分は高齢層が若い世代を搾取しているかのような議論には全面的に反対だが、テレビを中心とする高齢世代の古びた社会認識が、結果的に若い世代に厳しい政策論を導いている、と感じることは多い。

(追記4)

 これは上記の仮説に重大な変更を迫るものかもしれないので、貼っておく。若い富裕層・中間層が、橋下市長を支持しているという調査結果。

 http://ow.ly/i/zbgv

*1:「男性は40代までは漸減、50代は横ばいで、60代以降はむしろ増加。女性も同様に30代までは漸減で40〜60代は横ばい、70歳以上で増加の動きを見せている。最初のグラフにあるように、テレビを観る人は漸減しているのだから、全体としてのテレビ視聴時間も減りそうなものだが……実のところ、全体量ではほぼ横ばい、むしろ微増の傾向すら確認できる。これはひとえに長時間視聴する高年齢層が増加しているから。」「普通のメディアやサービスなら「高齢者が抜けてその分若年層の割合が増え総量が維持される」新陳代謝が起きるわけだが、テレビの視聴に関しては「若年層が減り高齢者が増え総量が維持される」逆新陳代謝が起きているhttp://www.garbagenews.net/archives/1752583.html

*2:2005年の郵政解散選挙については以下の朝日新聞の調査記事がある。「朝日新聞社が22、23日に実施した全国世論調査によると、今回の総選挙では、テレビの視聴時間の長い層ほど自民候補に投票した人が多い傾向にあることが浮かび上がった。・・・・・視聴時間と総選挙の投票先との関係を見ると、「2時間以内」で自民候補に投票したと答えた人は40%、「2〜4時間」では44%、「4時間以上」では47%と、視聴時間が長いほど多くなっている。視聴時間は男性より女性の方が長めだったが、投票先との関係では男女ともほぼ同じ傾向を示した。また、テレビの視聴時間は年代別でみると、高年齢層ほど長く、70歳以上では「4時間以上」が3割近い。調査では高齢者や女性で自民候補への投票が多めという結果も出ている。テレビ報道が直接、自民候補への投票を促したとはいえないものの、視聴時間が長い、こうした層が自民大勝を後押しした側面もうかがえる」(「TV長く見た人、総選挙で自民候補に投票 朝日新聞社世論調査」2005年10月26日朝刊)。また読売新聞はネット上で2009年の衆院選直前に、以下のような調査を行っている。「平日の1日のテレビ視聴時間ごとに比例選の投票先を見ると、30分未満の人は自民党24%、民主党29%と5ポイント差だったが、2時間以上・3時間未満は自民党17%、民主党38%で、視聴時間が長いほど民主党への支持が強まる傾向が出た。」(「自民評価、やや持ち直し…読売ネット調査」2009年8月8日)(追記)どこまで信頼性のおける調査かは不明だが、民主党「政権交替」選挙に関して以下のような調査がある。「全体では、政権交代を望んだのは、過半数に達せず、42%であり、「民主党に投票する」は32%、「自民党に投票する」は12%である。性別世代別でみると様相は異なる。政権交代を60%以上の人々が期待したのは、50代以上の男性の「断層世代」、「団塊世代」、「戦後世代」だけである。この期待は、民主党への投票に直接繋がっている。この意味で、民主党衆院選の勝利は、「男性中高年による成熟革命」だった。さらに、子育て期の「団塊ジュニア」や「新人類」も取り込んだことも大きい。」http://www.jmrlsi.co.jp/menu/mnext/d02/03/election2009.html この手の調査はそれほど豊富ではなく、きちんと実証するというのは難しいが(正直場末のブログでは限界)、ではどういう筋で現代日本の政治現象を理解すればよいのかという話になると、今のところここで提示した話以上のものが今のところよくわからない。

*3:「インターネットを利用している者の比率は、全体で44.7%であるが、男では20歳代で78.7%であるのに対して70歳以上は14.5%、女では20歳代で79.6%であるのに対して70歳以上は3.5%と年齢によって大きな利用率の差がある点が目立っている」http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/6220.html 最近は高齢層の利用率も大きく増えているようだが、ただ「インターネットを利用している」と言っても、テレビのように視聴者が似たような政治報道番組を見ていると仮定することができないので、利用率と政治動向との関係についてはその質や中身についての繊細な調査が必要になる。

*4:ごく狭い部分を理解するには有効だったりするので厄介なのだが。