「施し」から「環境」へ
ここのところブログやツイッターが生活保護の話題に完全に占拠されている状態だが、やはり気になったのは、再分配の「公平性」をめぐる感情の問題がほとんど語られていないことである。実名を上げて「不正受給」を告発した片山さつき氏のやり方は、率直に言って悪質極まりないものであるが、彼女をこうした行動に駆り立てているのは、「働き者の国民年金や、最低賃金より県によっては多くもらえる、正直な働き者がバカをみる」という*1、生活保護制度に対する世論の「不公平感」の存在がある。この不公平感自体は決して理解不可能というものではなく、こうした負の感情がどうしてここまで強まってしまったのか、そしてどのようにして「公平性」を回復できるのかについて、真剣に考えていく必要があるだろう。
一般的に言えば、政府の再分配に対する公平性を確保するためには、より均等な負担に均等な給付を対応させることが原則である。経済格差が存在しても、富裕層が税を負担して貧困者に再分配すればよい、という考え方に私が賛成しないのは、そうした方法は税負担の重い富裕層の政治的発言権をより高めるだけで、分配を受け取るばかりの貧困層に対するスティグマを強化する危険性があるからである。さらに、そうした垂直的な再分配の方法は、給付が受けられるか可能か否かの境界線を明確かつ強い形で線引きする必要があるが、その結果何が起こるかと言えば、境界線上で給付を拒否された貧困者のルサンチマンであり、そして貧困者が給付を受けるための醜い手段の横行である。結果として、貧困者に対するスティグマがより悪化し、社会保障制度への信頼も失墜してしまうことになる*2。
もちろん、日本は既に逆進的な社会保険負担と消費税が社会保障費と税収に占める割合が相対的に高く、90年代末以降に累進所得税も緩和されてきた。問題は、負担の逆進化が社会保障の抑制や削減とともに行われたこと、つまり逆進的な負担が再分配の権利の根拠としてではなく、所得の多寡に関わらず国民が均しく社会保障財政の厳しい状況を受け入れて「痛みに耐える」べきだ、という論理の下に導入されてきたことである。均等で逆進的な負担は、スティグマを伴わずアクセスの容易な均等な分配が対応しなければならないにも関わらず、実際は障害者福祉の現場など、「自立支援」の名の下に福祉給付のハードルが引き上げられ、スティグマがより強化されてきたことは周知の通りである。この結果どうなったかと言えば、税負担が高まったのにも関わらず分配が引き下げられた低所得層が、一方では「自分たちは我慢をしている」という自意識を強め、他方では生活保護受給者などの「我慢をしていない」人々に対するルサンチマンを募らせていったのである。
生活保護受給者へのバッシングを生み出さないためには、人々の人生や生活における政府の社会保障の役割をもっと普遍的なものにしていくしかない。旧来の日本の社会保障制度が、男性雇用を通じた企業福祉を中心として、それを専業主婦と家族が補完し、政府の直接的な福祉給付はリタイアした高齢層に相対的に集中していたことは、既に多くの人によって論じられている。政府も現役世代の社会保障を担っていなかったわけではないが、それは経済規制を通じた雇用保障という間接的なものであって、言わば「裏方」としての役割であった。こうした仕組みの下では、人々は企業と家族によって生活が保障されてきたという実感が強く、自ずと政府の直接的な福祉給付に依存することは「よっぽどの事情」がなければならない、というイメージが形成されることになる。結果として、「よっぽどの事情」がないと見られる場合には、容易にバッシングを生み出してしまうわけである。
そうではなく、出産・育児、進学、就職といった人生の節目節目で政府の直接的な支援を受けることが「当たり前」になっていれば、生活保護受給者に対する視線もかなり違ったものになるはずである。政府の社会保障を「家族の絆」と対立させて語る人は依然多いが、そのように考える人が多いのは、逆説的なようだが家族を対象とした政府の社会保障が依然として手薄だからである。例えば、育児休暇や介護保険などの政府の社会保障による支援を抜きにした「家族の絆」など現実にあり得ないのであって、もしそうした支援がなければ育児や介護の負担に耐えかねて(あるいはそうした負担を忌避して)崩壊する家族が増えることは、容易に理解できるはずである*3。「政府に頼らず」に子供を育てて親を介護してきたという自意識の強い真面目な人ほど、当然「扶養義務」を果たさない人に対して厳しい態度をとることになるのは自然である。
「不正受給」問題で最も間違った解決法は、今自民党が推し進めようとしている、審査の厳格化や親族の扶養義務の強化である。厳格化すれば「本来給付されるべき弱者」*4のハードルがさらに上がり、今まで特に問題視されてこなかった「不正受給者」が、新たに続々と「発見」されていくだけの話である。そして、親族の扶養義務を強化すれば、繰り返すように扶養の負担に耐えられない人が続出して「家族の絆」が崩壊し、そうした風景が「日本の美徳が失われた」という保守派の嘆きや、「自分たちは生活を切り詰めて両親を養っているのに」という人々のルサンチマンをさらに掻き立て、最終的に生活保護制度を崩壊に導くことになるだろう。
まとめると、生活保護バッシングのような現象を生み出さないためには、均等な負担に対応したアクセス・フリーな(低所得者限定ではない)普遍的な社会保障制度の構築と、人々の人生と生活に対する政府の社会保障制度の役割強化を通じて、生活保護などの福祉給付が政府の「施し」ではなく、人々が生きていくために不可欠な「環境」であるという実感を、国民全体が持ってもらうことが必要である*5。しかし今の日本では、政府の社会保障が現実に人々の生存と生活から切り離すことのできない厳然たる「環境」になっているにも関わらず、それがあたかも「施し」であるかのような理解が、依然として大きな声で語られている状況である。
(補足)
累進所得税などの垂直的な再分配は筋がよくない、という私の議論がピンと来ないという人は、飲み会では上司や先輩がより多く負担するのが「当たり前」である、という風景を思い起こしてもらえれば十分である。言うまでもなく、上司や先輩がより多く負担するのは、目に見える形で「上下関係」が存在し、それを維持・強化するためであって、所得の多さで決まっているわけでは必ずしもない。逆に言うと、上下関係が存在しない同窓会の場合に、「自分は貧乏だから会費は他の人の半分にしてくれ」などという言い分が通用するかどうかを、考えてみればいい。
要するに、上下関係が原理的に存在しない(はずの)国民どうしの間で同様の垂直的な再分配をやろうとすれば、高い負担に応じている富裕層・中間層の不公平感が蓄積されやすいのである。逆に、かつて累進所得税が公平性を確保できていた理由の一つは、富裕層と貧困層の関係が単なる所得の多寡という以上の「上下関係」(実質的な権力関係というよりは規範・イメージとしての)*6であったから、と理解することができる。もちろん政府の再分配政策と、飲み会や同窓会は違うと言われるかもしれないが、負担と分配の公平性の感情という問題については、決して不適切な喩えではないと考える。
できるだけ均等な負担を課した上で、政府の社会サービスへのアクセスをフリーにする、というのがもっとも不公平感を生む可能性の低い再分配の方法である。ただ、再分配を確約できたとしても、低所得者が分厚い層を成している場合は、実際問題として均等な負担を課すことは困難である。だから結局のところ、不公平感を生まないための基本的条件として、野田首相も語っている「分厚い中間層の再建」、つまり安定した経済成長と健全な雇用の創出、劣悪な労働環境に対する規制強化などの政策が遂行される必要がある。
自分が片山さつき氏を心底許せないと思うのは、生活保護と社会保障制度に対する「無知」「誤解」を垂れ流しているからではなく*7、普通に真面目に働いている人が感じているであろう不公平感を利用・扇動して、その感情を貧しい人の再分配を切り下げる政策に誘導していることにある。多分「頭のいい人」は、「自分ばかり損している」という、人間であれば誰もが(特に生真面目な人ほど)抱きがちな卑小な感情の問題にグジグジと悩むこともなく、「ベーシック・インカム」などを掲げて「解決」できてしまうのだろうが、自分は再分配の問題を考えるというのは、まずはそうした世間の卑小な感情にきちんと向き合うことだと思っている*8。
*1:http://twitter.com/katayama_s/status/210291233820643328
*2:ベーシック・インカムを掲げる人もいるが、これは働かずに税金も社会保険も負担せず、給付を一方的に受け取ることに誰も不満を抱かないという、まさに近代的な価値観の根本的な転覆を必要とするものである。スティグマの問題は、現行の社会保障制度の枠組みで十分に対応可能な問題であると考える。
*3:もちろん、「不正受給」をバッシングする人たちの言う「家族の絆」はあくまでイデオロギーなのであって、現実の家族が崩壊しようがあまり興味がないのかもしれない。
*4:もちろんこれは「不正受給」を批判する人の頭の中にしかない幻想である。普通に考えて、生活保護を受給するほどの状況に追い込まれた人は、平均的な勤労者よりも「生活がだらしがない」「人生に真面目じゃない」人たちであろう。
*5:「税と社会保障の一体改革」に不満を言えばきりがないが、それでも今の日本の政治の中で、この方向に半歩でも前に進もうとしているのが「一体改革」周辺であるのも、否定できない事実である。しかし、政治家もメディアの評論家もブログやツイッターでも、「増税」の是非にのみ異常に関心が集中しており、「一体改革」は消費税増税のための言い訳でしかないような扱いになっている。批判するにしても、まず「一体改革」の成案とその周辺の社会保障論者の著作を熟読すべきところだが、管見の限りそうした誠実な態度を示している人は一人もいない。それどころか、「一体改革なんたら」などと茶化した上で、橋下大阪市長の他愛もない「維新八策」などに真面目に付き合っている人がいるが、本当に唖然とするとしか言いようがない。
*6:このように所得の格差を上下関係としてイメージさせるのに、おそらくマルクス主義と社会主義運動が非常に大きな役割を果たしていた。
*7:というより、彼女ほどのキャリアを積んだエリートなら「分かってやっている」「意図的に国民を騙している」と信じたい。
*8:BI論者ほどそうした感情に向き合う粘り強さが必要とされるのだが、世のBI論者というのはそういう感情に無神経な人か、あるいは官僚・公務員に「中間搾取」されているという被害者感情を抱えている人か、いずれかの場合が多い。