社会保障を考える

 「平成24年版厚生労働白書 −社会保障を考える」に対して、「教科書的」という好意的な評価がある一方で、「経済学の知見がない」という批判が散見された。あまり正当な批判ではないと思う一方で(経済学の教科書に「社会保障論の知見がない」と批判するようなものなので)、社会保障制度が経済にどう貢献するのかについて改めて考えたくなったので、以下に簡単に述べておきたい*1。ちなみに、これは厚労省白書のように「教科書的」なものでは全くなく、人によっては「いまさら」の話かもしれないが。

 第1に、希少資源を奪い合う「生存競争」を抑止し、付加価値を高めるための競争を促進する。政府による基本的生存の保障がなく、市場競争が純粋に「生き残るため」の競争になってしまうと、「俺たちの生活がかかっているのにそんな冒険できるか」と、ビジネスの現場で斬新なアイデアや発想は排除されて、確実に目先の利益を確保できるような旧来のやり方を選択する傾向が強まることになる。純粋に「楽しさ」や「便利さ」を追求する付加価値をめぐる競争を活性化するためには、まずは人々を「生存の恐怖」から解放させなければならない。

 第2に、低生産性の企業に労働者が滞留することを防ぎ、生産性の高い産業への雇用移動を促進する。失業のリスクが高すぎると、「ゾンビ企業」「既得権益」と罵られようと労働者は必死でしがみつくしかなく、逆に失業しても以前とそれほど変わらない生活が保障され、かつ次の雇用への見通しが立つのであれば、そうした衰退産業であえて働く理由はなくなる。現在はよく知られているように、これは「スウェーデン・モデル」と呼ばれるものである。

 第3に、低賃金労働者に依存して利益を得ているような、非生産的な企業の存在を許容させない。政府による生活保障がないために、どんな劣悪な労働条件でも労働者が「生きるため」に甘受してしまう状態は、企業家が利益を生み出そうとする際に、新しい製品やサービスを生み出すことに汗をかく前に、労働者の待遇を徹底的に切り下げて利益を出すという安易な選択を横行させてしまう。「ブラック企業」がその典型であるが、こうした企業の存在を許容することが経済の成長にとってプラスであるはずがない。

 第4に、経済の安定性をもたらす。社会保障がなく生活の資源を全て市場から調達しているという状態は、不況が到来すると途端に生活が行き詰ってしまうことを意味する。そのため、好況の時は「今が稼ぎ時」とばかりに投資が過熱してバブルを引き起こしやすくなり、逆に不況になると既に蓄えた貯金や資産を大事に抱え込むという過度な防衛反応となって、不況が深刻化・長期化してしまう。好況・不況に関わらず、政府によって一定の生活水準が保障されていれば、人々のこうした極端な経済行動は抑制されることになる。

 最後に、市場競争への参加の機会を均等化する。市場競争に富裕層の家庭に生まれた人が優先的に参加できるという不平等を放置することは、健全な競争を阻害することになる。単なる規制緩和だけは、現在資産を持っている人が圧倒的に有利であるという状況を改善することはできないため、保育・教育や職業訓練を中心とする、政府の社会保障による市場競争への参加支援が必要になる。現実には完全な機会均等は不可能であるが、だからと言ってそれを放置しておくことは、市場原理の公平性に対する不信感を人々の間に蔓延させてしまう。

 逆に、社会保障が経済に貢献するという議論で、厚労省自身も主張していることで賛成できないものがある。

 一つには、「社会保障の機能強化は需要と雇用を生み出す」というものである。需要と雇用を生み出すことが有り得ることは全く否定しないが、なぜそれが社会保障でなければならないかの理由が説明できない。例えば、金融緩和や公共投資のほうが、より強力に需要と雇用を生み出すじゃないかと言われてしまえば、全く反論できなくなってしまう。特に、財源として「増税」というそれ自体は需要を冷え込ませる方法を選択する場合、人に納得してもらうことがきわめて難しいことは、小野善康氏への批判をみても明らかである。

 もう一つは、医療や介護が「成長産業」になるというものである。「成長産業」になるということは、価格を上げたり顧客を増やしたりすることができることを意味しなければならないが、貧しい人もサービスの消費者である医療や介護で高い価格を要求することは無理であり、さらに患者や要介護者を人為的に増やすことは(現実的にという以上に倫理的な問題として)不可能である。成長産業になると言うのであれば、民営化にまで言及しないと筋が通らないし、民営化が好ましくないと言うのであれば成長産業として見るべきではない。

 こうした社会保障には経済的効用があるという議論は、社会保障費を削減すべき、あるいはもっと民営化すべきという経済学者やエコノミストへの対応も含まれているのかもしれない。しかし、そうした無理な議論を展開して自己撞着に陥るよりも、経済的な目的とは無関係に政府が国民の生存権を徹底的かつ無条件に保障することこそが、結果として経済の安定と活性化の双方に寄与するという視点をとるべきだと考える。

(追記)

なお、生産や消費で測った経済規模の拡大よりも、福祉の充実に価値を見出すことを経済学では否定していない。福祉がいかに人間的に重要かを道徳的に説く方が、下手に経済規模の拡大に貢献すると言うよりも、より経済学と整合的だと思う。

http://www.anlyznews.com/2012/09/blog-post_9.html

 素人の思いつきを丁寧に読んでいただいて恐縮だが、以上の議論は社会保障が経済に対して貢献する要素があるとしたらどこにあるのかということで、自分自身もナショナルミニマムの保障は、それ自体は経済的な効用を度外視して行われるべきだと考えている。

 問題は、だからといって経済との関係を考えなくて済むようになるわけではないことである(社会保障論の業界内ではそういう振りができるが)。もともと、福祉国家の考え方は「苦汗産業」の撲滅と失業問題の解消を出発点としており、現在からみると少々粗っぽいところもあるが、自分は最近の小難しい社会保障論よりも、このあたりの古臭い議論に共感することが多い。

 これは価値観の問題に属するが、自分は市場はその守備範囲を「得意分野」に限定してあげたほうがより活性化する、という考え方が基本にあり、おそらくこの点で「資源配分の9割は市場でうまくいく」と言い切ってしまう経済学系の人たちとは相性が良くないところがある(自分は5割強ぐらいだと思っている)。ブラック企業の問題も「情報の非対称性」の問題とする傾向があるが、自分もこれは納得できない。そこでは、ブラック企業で体を壊して働くほうが失業状態よりもましという、悲惨な選択をさせられている現実があるのであって、そうした現実の条件を変えていくことが第一だと思う。

*1:この点で自分は割と古典的な福祉国家論者である。社会保障論のテキストだと、1970年代後半以降に「福祉国家と経済成長との幸福な結婚は終わった」と書かれていることが多いが、これは全く不適切な表現だと考える。社会保障制度の基礎が「雇用」にある以上(年金問題の根本解決も要は雇用と所得の増加である)、福祉国家と経済成長は「離婚を許されていない夫婦」のようものとして理解されるべきだろう。その点で白書に「雇用」の重要性があまり強調されていないことは、不満の残る点である。