公平性を確保する三つの方法

 今の日本で税負担の公平性をどう実現するか正直分からないと前回書いたが、いくつか考えられる方法について簡単に触れておきたい*1


(1)税負担が完全に社会保障給付と対応していることを明示する

 これは全くの正論だが、既に「税と社会保障の一体改革」でも強調されており*2、もしこれで税負担に対する納得を得られていないとすると、納税者の不満は別のところにあると考える必要がある。それに「税と社会保障の一体改革」を仔細に見ると、社会保障よりも財政再建的な論理が強く、それは社会保障費が急激に増加する過去10数年に増税どころか(法人税所得税の)減税をやってきた過去を埋め合わせるという性質上致し方ない面もあるが、増税の対価として給付があるということを国民に実感させることは現実には難しいだろう。


(2)「経済成長」を先行させることで増税への負担感をやわらげる

 不況で限られたパイの中で税負担を要求するより、全体の経済のパイを増やしたほうが税の負担感が減少し、増税に対する合意も得やすくなる、というのは確かに一理ある。ただ、今の日本で可能と予想される水準(高くて3%程度)の経済成長の実現でそうした条件ができるのかどうか疑問であるし、バブル絶頂期の1989年の消費税増税における世論の激しい反発を思い起こしても、経済成長があると税負担に対する合意も得やすくなるとは単純には言えないことは明らかである。経済成長によって国民が税負担に寛容になる可能性も否定はしないが、「せっかく自分が頑張って稼いだ金なのに」と、富裕層・中間層の自己責任的な所有権意識を強める可能性も、同等に存在すると考えるべきである。2000年代半ばの「いざなぎ越え」の経験を素直に振り返れば、明らかに後者だろう。


(3)国会議員や官僚など税負担を要求する側が「身を切る姿勢」を見せて国民の理解を得る

 これは今の日本のメディア・世論の中心的な意見であるが*3、全面的に間違ったものである。当たり前のことだが、そもそも議員定数や行政職員の人員は、民主主義の代表性や必要な行政サービスの業務量で決めるべきであって、「財政再建」の論理とは切り離して議論すべきである。それに、増税が政治課題になるたびに「無駄遣いの削減」が焦点になり、それをめぐる報道が加熱するようになれば、かえって世論の反感が強まることが容易に予想される。とりわけ「事業仕分け」のように、一度廃止を宣言しておいて後でこっそり復活、という姑息な手段が逐一報道されていれば、誰だって増税に素直に納得できなくなってしまう。国会議員や官僚が身を切ったところで大した財源にはならないし、逆に民主主義や行政運営の機能不全を引き起こすリスクがあり、しかも肝心の政治家や官僚への信頼回復にとってもマイナスに作用する可能性が高い。もし、社会保障の再建・強化を目指すための増税が必要であると言うのなら、「身を切る姿勢」などは無意味であるどころか百害あって一利なしであることを理解すべきだろう。


 以上の三つの道ともそれぞれ困難であるが、それでもこの三つの選択肢しかないというのであれば、(1)と(2)を慎重に組み合わせながら、税負担の公平性の確保を図っていくしかない。

 (3)は全くの論外である。普遍主義的な社会保障体制を目指す立場からは、税負担は第一義的には自分の生活・生存のためである(生活が悪化すれば税負担を根拠に政府を批判できるようになる)、ということを国民が実感してもらうことが望ましいが、「まず自ら身を切る姿勢を」という論理は、それに完全に逆らうものである。「自ら身を切った後に増税をお願いする」は、よほどうまく進めなければ単なる不公平感の再生産にしかならないだろうし、そのことに政治家も政治評論家も早く気付くべきだろう(もっとも評論家は気付いても改めることはないだろうが)。

 最後に、くどいようだが、所得税累進強化を主張するにしても消費税増税を主張するにしても、税負担の公平性をめぐる世論の感情に対して、もっとセンシティヴでなければならない。経済・財政の専門家は方法の問題ばかりに頭を使うか、実際にどのような税負担の方法を選択できるのかは、結局のところは公平性をめぐる世論感情の問題に依存する。もし何が税負担として公平かという問題を、もっと税制改革の議論にも反映させていれば、「まず議員と官僚が自ら身を切る姿勢を」などという実際のところ誰も得をしない精神論が、少なくともここまで圧倒的に力を持ってしまうことはなかっただろうと考える。

(追記)

 「税と社会保障の一体改革」のどこにも、議員定数や公務員人件費の削減の話など(当たり前だが)出てこない。しかし、「税と社会保障の一体改革」周辺の政治家は、世論に向き合ったとたんに「自ら身を切る姿勢で国民に納得していただく」などと言ってしまう。社会保障制度の再建の話であるはずが、メディアでは「無駄遣いの削減」が中心的なテーマになり、連日そうした報道に接するうちに国民も税負担に対する不満や不公平感を募らせていくようになる。そして、そうした不公平感を煽ることで利益を得ようとしている、野心を持った政治勢力や在野の評論家につけ入る隙を与えている。

 財政や社会保障の専門家は、「世論は理解していない」と思い込んでいるが、決してそうではない。「わかっているけど納得できない」のである。どのように世論の納得を得るのかについて、専門家は政治家にあずけっぱなしにしてしまうのではなく、もっと真剣に考えてほしいと思う。

(累進税論者に一言)

 ネット上では所得税累進強化論者が多く、問題意識そのものは共感できるのであえて言っておきたいが、「正論」に居直るのではなくもう少し他人を説得させるような言葉遣いをしてほしい。

 何が公平な税負担であるのかという点に関しては、その社会の政治文化によって決まるものであって、一義的には決められない。あえて言えば、「みんなが公平だと思っていること」が「公平」なのであり、それをひっくり返すには物凄い労力が必要である。だから、「負担の逆進性=不公平」であると思っている人は、「逆進的でもより均等な負担こそ公平」と考えている人をどう説得できるのかということを常に念頭に置いて、慎重に言葉を選ばなければならない。

 かつての高い累進率は、世界恐慌と二度の世界大戦という膨大な犠牲者を生みだした凄惨な経験が、一握りの人間が富を独占していることの正当性を、否応なく失わせてしまったことで可能になったものである。さらに「共産主義」という、権力を握らせたら富裕層などたちまち粛清されてしまう政治勢力が現実に存在していた。

 こうした条件を抜きに、ただでさえ大きな権力を有している富裕層に高い税負担を要求することがどれだけ困難であるのかを、もっと自覚してほしい。少なくとも、リーマン・ショック程度ではこの困難さが解消されないことは、今のアメリカが示している通りである。個人的には、この困難を敢えて突破しなければならないほど、累進所得税にこだわるべき必然性や正当性は感じない。

(再分配の方法的対立について)

 同じ再分配を志向する人でも、経済学系の人は累進所得税のように高所得者のみに税負担を課し、低所得者をターゲットにした現金給付の金銭的な分配を施すという方法を好む傾向がある。それに対して社会保障系の人は、消費税や住民税のように低所得者にも薄く広く税金をかけて、全国民を対象とした現物給付の制度的な再分配を支持している。

 再分配政策が社会保障論の専門領域である以上、ある意味で当たり前であるが、この対立については後者のほうが圧倒的に正しい。前者は公平性の確保という、現場が直面しなければならない政治社会学的な大問題を完全に無視しているし、そもそも日本の社会保障制度は医療・介護・年金ともすべて普遍主義的に設計されている以上、戦争や革命でも起こらない限り政策論的には後者を選択する以外にあり得ない。

 1年前まで盛り上がっていたベーシック・インカム論が急速に冷えてしまったのは、それが政策論的に非現実的であるという単純な事実に、みんな気付いてしまったからだろう。ベーシック・インカム論を原理的なレベルで支持している自分からすると、これを経済学者などが下手に現実的な政策論として語ってしまったことが、すべての間違いであったと考える。ベーシック・インカム論を主張する資格があるのは、「親から小遣いを貰って働こうとしもない五体満足の30歳男性」に月10万円が無条件に支給されることを、世間に向かってどう説得するのかを真剣に悩み考えている人だけである。

*1:そもそも近い将来のあらゆる増税を否定するという選択肢は除外している。

*2:「消費税収(国・地方、現行分の地方消費税を除く)については、全て国民に還元し、官の肥大化には使わないこととし、消費税を原則として社会保障目的税とすることを法律上、会計上も明確にすることを含め、区分経理を徹底する等、その使途を明確化する(消費税収の社会保障財源化)」http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/syakaihosyou/kentohonbu/pdf/230630kettei.pdf社会保障目的税」には異論もあるが、負担と給付の関係を明確化するという意味では必ずしも反対ではない。

*3:世論調査―質問と回答〈10月15、16日実施〉