社会保障を考える

 「平成24年版厚生労働白書 −社会保障を考える」に対して、「教科書的」という好意的な評価がある一方で、「経済学の知見がない」という批判が散見された。あまり正当な批判ではないと思う一方で(経済学の教科書に「社会保障論の知見がない」と批判するようなものなので)、社会保障制度が経済にどう貢献するのかについて改めて考えたくなったので、以下に簡単に述べておきたい*1。ちなみに、これは厚労省白書のように「教科書的」なものでは全くなく、人によっては「いまさら」の話かもしれないが。

 第1に、希少資源を奪い合う「生存競争」を抑止し、付加価値を高めるための競争を促進する。政府による基本的生存の保障がなく、市場競争が純粋に「生き残るため」の競争になってしまうと、「俺たちの生活がかかっているのにそんな冒険できるか」と、ビジネスの現場で斬新なアイデアや発想は排除されて、確実に目先の利益を確保できるような旧来のやり方を選択する傾向が強まることになる。純粋に「楽しさ」や「便利さ」を追求する付加価値をめぐる競争を活性化するためには、まずは人々を「生存の恐怖」から解放させなければならない。

 第2に、低生産性の企業に労働者が滞留することを防ぎ、生産性の高い産業への雇用移動を促進する。失業のリスクが高すぎると、「ゾンビ企業」「既得権益」と罵られようと労働者は必死でしがみつくしかなく、逆に失業しても以前とそれほど変わらない生活が保障され、かつ次の雇用への見通しが立つのであれば、そうした衰退産業であえて働く理由はなくなる。現在はよく知られているように、これは「スウェーデン・モデル」と呼ばれるものである。

 第3に、低賃金労働者に依存して利益を得ているような、非生産的な企業の存在を許容させない。政府による生活保障がないために、どんな劣悪な労働条件でも労働者が「生きるため」に甘受してしまう状態は、企業家が利益を生み出そうとする際に、新しい製品やサービスを生み出すことに汗をかく前に、労働者の待遇を徹底的に切り下げて利益を出すという安易な選択を横行させてしまう。「ブラック企業」がその典型であるが、こうした企業の存在を許容することが経済の成長にとってプラスであるはずがない。

 第4に、経済の安定性をもたらす。社会保障がなく生活の資源を全て市場から調達しているという状態は、不況が到来すると途端に生活が行き詰ってしまうことを意味する。そのため、好況の時は「今が稼ぎ時」とばかりに投資が過熱してバブルを引き起こしやすくなり、逆に不況になると既に蓄えた貯金や資産を大事に抱え込むという過度な防衛反応となって、不況が深刻化・長期化してしまう。好況・不況に関わらず、政府によって一定の生活水準が保障されていれば、人々のこうした極端な経済行動は抑制されることになる。

 最後に、市場競争への参加の機会を均等化する。市場競争に富裕層の家庭に生まれた人が優先的に参加できるという不平等を放置することは、健全な競争を阻害することになる。単なる規制緩和だけは、現在資産を持っている人が圧倒的に有利であるという状況を改善することはできないため、保育・教育や職業訓練を中心とする、政府の社会保障による市場競争への参加支援が必要になる。現実には完全な機会均等は不可能であるが、だからと言ってそれを放置しておくことは、市場原理の公平性に対する不信感を人々の間に蔓延させてしまう。

 逆に、社会保障が経済に貢献するという議論で、厚労省自身も主張していることで賛成できないものがある。

 一つには、「社会保障の機能強化は需要と雇用を生み出す」というものである。需要と雇用を生み出すことが有り得ることは全く否定しないが、なぜそれが社会保障でなければならないかの理由が説明できない。例えば、金融緩和や公共投資のほうが、より強力に需要と雇用を生み出すじゃないかと言われてしまえば、全く反論できなくなってしまう。特に、財源として「増税」というそれ自体は需要を冷え込ませる方法を選択する場合、人に納得してもらうことがきわめて難しいことは、小野善康氏への批判をみても明らかである。

 もう一つは、医療や介護が「成長産業」になるというものである。「成長産業」になるということは、価格を上げたり顧客を増やしたりすることができることを意味しなければならないが、貧しい人もサービスの消費者である医療や介護で高い価格を要求することは無理であり、さらに患者や要介護者を人為的に増やすことは(現実的にという以上に倫理的な問題として)不可能である。成長産業になると言うのであれば、民営化にまで言及しないと筋が通らないし、民営化が好ましくないと言うのであれば成長産業として見るべきではない。

 こうした社会保障には経済的効用があるという議論は、社会保障費を削減すべき、あるいはもっと民営化すべきという経済学者やエコノミストへの対応も含まれているのかもしれない。しかし、そうした無理な議論を展開して自己撞着に陥るよりも、経済的な目的とは無関係に政府が国民の生存権を徹底的かつ無条件に保障することこそが、結果として経済の安定と活性化の双方に寄与するという視点をとるべきだと考える。

(追記)

なお、生産や消費で測った経済規模の拡大よりも、福祉の充実に価値を見出すことを経済学では否定していない。福祉がいかに人間的に重要かを道徳的に説く方が、下手に経済規模の拡大に貢献すると言うよりも、より経済学と整合的だと思う。

http://www.anlyznews.com/2012/09/blog-post_9.html

 素人の思いつきを丁寧に読んでいただいて恐縮だが、以上の議論は社会保障が経済に対して貢献する要素があるとしたらどこにあるのかということで、自分自身もナショナルミニマムの保障は、それ自体は経済的な効用を度外視して行われるべきだと考えている。

 問題は、だからといって経済との関係を考えなくて済むようになるわけではないことである(社会保障論の業界内ではそういう振りができるが)。もともと、福祉国家の考え方は「苦汗産業」の撲滅と失業問題の解消を出発点としており、現在からみると少々粗っぽいところもあるが、自分は最近の小難しい社会保障論よりも、このあたりの古臭い議論に共感することが多い。

 これは価値観の問題に属するが、自分は市場はその守備範囲を「得意分野」に限定してあげたほうがより活性化する、という考え方が基本にあり、おそらくこの点で「資源配分の9割は市場でうまくいく」と言い切ってしまう経済学系の人たちとは相性が良くないところがある(自分は5割強ぐらいだと思っている)。ブラック企業の問題も「情報の非対称性」の問題とする傾向があるが、自分もこれは納得できない。そこでは、ブラック企業で体を壊して働くほうが失業状態よりもましという、悲惨な選択をさせられている現実があるのであって、そうした現実の条件を変えていくことが第一だと思う。

*1:この点で自分は割と古典的な福祉国家論者である。社会保障論のテキストだと、1970年代後半以降に「福祉国家と経済成長との幸福な結婚は終わった」と書かれていることが多いが、これは全く不適切な表現だと考える。社会保障制度の基礎が「雇用」にある以上(年金問題の根本解決も要は雇用と所得の増加である)、福祉国家と経済成長は「離婚を許されていない夫婦」のようものとして理解されるべきだろう。その点で白書に「雇用」の重要性があまり強調されていないことは、不満の残る点である。

お詫びと言い訳

 禁欲すると宣言しておくながら全然出来なかったことをお詫びします。いろいろと誤解を招く言い方が多かったようなので、ほとんど繰り返しなのですが、批判的なコメントをいただいた(ごくごく少数の)人に対して、言い訳というか私の意図をもう一度最後にまとめておきます。

 まず、私が何度もくどいほど言っているのは、増税反増税を政治的な対立軸とする限り、どちらに与しても緊縮財政路線を後押しすることにしかならない、ということです。「増税」を掲げるのはもちろんこと、「増税反対」を掲げても「まずバラマキ政策をやめて政治家と官僚が身を削るべき」という圧倒的な声に回収されてしまうわけで、野田政権と自民党の緊縮増税路線を批判したいなら、「反増税」ではなく真正面から「反緊縮」を掲げるべきと言っているわけです。その意味で、私に批判的にせよコメントを付けていただいた人が、その後も相変わらず「増税反対」ばかりを言っているのには正直脱力してしまいます。

 私は野田政権の増税策に反対すべきではない、などとは全く思っていません。あくまで需要と雇用の創出という「反緊縮」を前面に掲げて、その文脈で語られる増税反対論(まさにクルーグマンのような)には賛同しています。赤字国債で財源を作るという主張であれば、それを真正面からタイトルに掲げてくれればいいのです。私が批判しているのは、あくまで増税批判が自己目的化し、文章の中から需要や雇用といった文字が消滅してしまっているような議論です。ちなみに、増税財源で福祉関連の分野を中心に政府が雇用をつくる、といった政策は経済や景気の問題とは別に普通にあるべきだと思います*1

 次に今回の5%の消費税増税が、他の需要喚起策を全て無に帰するほどの壊滅的な影響を及ぼすという前提での議論が目立つのですが、これは即刻やめるべきだと思います。98年以降の不況を見ても、公共事業や公的雇用の削減、金融引き締め政策、社会保障支出の抑制、規制緩和政策の断行、社会保険料の負担増などなど、デフレ不況を引き起こした可能性のある緊縮政策がたくさんあるなかで、消費税増税だけが突出した原因であるというのは、いくら読んでも説得されません。また消費税の景気に対する影響は専門家の間でも見解がばらばらで*2、傍から見ると不毛な神学論争を招くものでしかありません。この問題はとりあえず脇に置き、一つの原因のみを過大評価することなく、需要と雇用の創出に悪影響を及ぼす可能性のある全ての緊縮的な政策に対して批判的に接する、という態度があるべきだと思います。

 私がもし「増税容認派」に見えるとしたら*3増税が回避されたときに「事業仕分け」の徹底化などの歳出削減圧力が一層激化する(ほぼ確実の)可能性を真剣に心配しているからです。財務省増税策だけではなく「事業仕分け」も主導しているわけですが、当然増税策が回避されれば「事業仕分け」に全力を尽くすようになるでしょう*4。特に歳出削減は、必ず緊急性が低く声の弱いところ(つまり若い世代の低所得者)にしわ寄せが行きますし、2000年代の社会保障抑制で最も「痛み」を蒙ったのがシングルマザーや障害者(とその家族)であったことは記憶に新しいところです。

 消費税は質の高い再分配を可能にする税制というのは自分の持論で、これは「消費税は再分配に不適格な税制」という議論が散見されたことへの異論でしたが、当然ながら現行の文脈では野田政権の緊縮増税策への賛成と読まれてしまうので(まあ読まれてしまっても別によいのですが)、今するべき議論ではなかったかなと少し反省してします。ただ今から消費税増税を撤回させるより、逆進性を根拠に再分配強化を訴えるほうが、単純な垂直的再分配よりも人々が納得しやすく、将来へのさらなる再分配の機能強化につながると考えているのは確かです。

 最後に、需要と雇用の創出に関心を持つ相対的に少数の人々の間で、金融・公債・税などの手段の次元での不毛で感情的な論争が多すぎると思います。「デフレ脱却」は誰もが唱える合言葉にこそなりましたが*5、それに対応した政策はほとんどなく、テレビを見ていると未だに緊縮財政再建策と「成長産業」(あるいは「グローバルな競争に打ち勝つ人材」の)育成策の組み合わせで経済を立て直す、という「構造改革」的な意見が依然として跋扈しています。金融緩和によるインフレの誘導、赤字国債による財政出動、税を通じた社会保障の機能強化を唱える人々が、それぞれの手段へのこだわりを持ちつつも、「反緊縮」で連携していく姿を切に望みます。

*1:小野善康氏の間違いは、これがデフレ脱却と経済成長のエンジンになる、と言い切ってしまったことにある。税を通じた社会保障の機能強化こそがデフレ脱却を可能にするという社会保障論者によくある主張も、意図や問題意識は全面的に共感するが、社会保障とマクロな経済の関係はもっと慎重に議論されるべき、というのが個人的な考えである。

*2:理由は良く分らないが、日本の経済学会の中心にいる人ほど影響を小さく見積もる傾向がある(消費増税はあくまで一里塚 吉川洋・東大教授に聞く 消費税率引き上げが日本経済に及ぼす影響/伊藤元重(東京大学大学院経済学研究科教授)。吉川氏や伊藤氏の方が正しいとは思わないが、こういう経済学の教科書も書いている権威のある(時の政権政党が否応なく尊重せざるを得ない)人に対してなすべき批判が、「増税で日本経済壊滅」という批判ではないことは確かである。

*3:見たい人は別にそう見ても構わないが、単に軽蔑するだけ。

*4:前者では財務省を厳しく批判する人が、後者に関しては割と寛容なのがよくわからないが。

*5:これについて、菅前首相の功績は公平に評価されるべきだと考える。「・・・私もこの間、ここでの議論やIMFなどのいろいろなレポートも読んでおりますけれども、やはり何としてもデフレの脱却なくしては、逆に財政の再建も非常に困難度が増す。全部が卵と鶏というか因果関係がありますけれども、同時並行的にぜひとも日銀にもデフレ脱却の努力を一層していただきたい、こう期待いたしております。」(平成22年02月22日衆議院予算委員会

当たり前の政治が欲しい

 現在、「増税」をめぐって政界再編が起きようとしている。民主主義の政治において重要なのは適切な争点の設定であるが、まさに「増税」ほど不適切な争点はなく、日本の政局の混乱および政治(という以上に民主主義への)不信、政策の停滞の元凶であると断言してよい。

 ブログやツイッターなどで発言力の高い経済系の人が増税策に反対しているのは、消費税増税の景気や財政に対するネガティヴな影響の問題である。そうした問題は「科学」に属するので、学問的なスキルを身につけた専門家同士で冷静に議論してもらうしかなく、そこに政治的な判断の入り混む余地はなく、当然ながら選挙の争点にもなり得ない。

 そうした専門家で議論されるべき増税の問題が、政治の争点として前面化するとどうなるか、既に日本の現実が語っている。社会保障はもちろんのこと、景気や財政の話ですら重要性がなくなってしまい、「国民は我慢して増税を受け入れるべき」か、それとも「増税の前に政治家・官僚が身を切るべき」かという、科学的に決着をつけるべき問題が、誰が我慢すべきかという不毛な精神論の問題になってしまう。そうなると、専門家の間で出した結論がひっくり返されたり、あるいはたまたま同じだったとしても、実際に遂行される経済政策や社会政策は全く期待したものでなかったり、ということにならざるを得ない。

 社会保障問題で増税に賛成している人や、デフレ脱却への関心で増税に反対している人は、まずは足もとの政治勢力や世論をじっくりと眺めるべきだろう。そうした「増税反増税」という一点では共有している勢力や世論の声が、自分の関心とあまりに隔たっているということはすぐに理解できるはずであり、ゆえに「増税」をめぐる政策論争や政局がそもそも不毛なものでしかない、ということもただちに認識し、そうした不毛な政局から撤退しなければならない。

 さらに言うと、科学という「真理」を追究すべき問題を政治の争点にしてしまうと、政治的な敵対者は価値意識や利害関心の違いではなく、「真理ではない」ものとして抹殺の対象になってしまう。人種主義や共産主義というと、今は単なるイデオロギーに過ぎないが、その当時信奉している人たちにとっては、誰にも否定的できない立派な「科学」および「真理」であった。そうした「真理」が全面的に政治化したことで民主的な政治が破壊され、その後に官僚主義による専門家の専制支配が打ち立てられたわけである。

 もちろんファシズム共産主義の歴史は極端だとして、たとえば「デフレ不況下の消費税増税は経済を破壊する」(逆に「早く増税しないと国債金利が上昇して財政破綻する」)という認識が全国民に広く共有され、そうした認識に基づく政権ができたとしても、それは既に民主主義の社会ではないだろう。そこにおける政治的な敵対者は、政治信条や利害関心の異なる(がゆえに尊重される)者ではなく、「真理を理解しない者」(ゆえに軽蔑すべき者)になってしまうからである。科学の問題は科学の土俵において「民主主義」が行われるべきで、政治の土俵において行われるべきではない。

 財務系の学者や政治家が緊縮増税を訴えるのは不愉快だが仕方ないとして、問題は反対する側が、彼らのつくった土俵に安易に乗っかって「反増税」で応酬してしまったことで、需要喚起・脱デフレや社会保障の機能強化という「反緊縮」の問題が争点から消えてしまったことである。政治において敗北というのは勢力の多寡で負けるということではなく、自分が選択すべき争点が消えてしまうことである。たとえ少数派だとしても、「反緊縮」を訴える足場がしっかりあることが重要であるにも関わらず、「反増税」論者は「デフレ下の増税は税収を減らす」という(当然論戦にかけては百戦錬磨の財務系の人も織り込み済みであろう)批判ばかりにかまけてしまうことで、その足場を自ら解体してしまった*1

 緊縮や反緊縮という以前に増税阻止が重要なんだという人がいるかもしれないが、それは全面的に間違っていると考える。そういう増税政局への加担が増税阻止すら実現できず(よしんばできたところで泥沼の道でしかなく)、かえって「増税派」を政治的に結束させ、増税派・反増税派ともに緊縮財政派の一人勝ち状態になってしまっていることは、既に現実が証明していることである。自分は諸外国と同じように、「緊縮/反緊縮」あるいは「保守/リベラル」「大きな政府/小さな政府」を対立軸として、政策手段の問題については専門家どうしで冷静に議論してもらうという、当たり前すぎる当たり前の政治を希望しているだけなのだが、日本は政策手段の問題が政治の対立軸となって感情的な神学論争に陥っている状態である。

(追記)

 このエントリは「財政民主主義」を否定するものではないかというコメントがあったので、確かにそういう誤解を招きやすいところがあったが、財政民主主義は税負担の公平性をめぐる討論や合意に関して意味を持つ概念であって、消費税増税の景気に対する影響うんぬんという問題は民主主義で討論かつ選択できる問題ではない。少なくとも、専門家の間で決着のつかない問題を政治に決断してもらう、などという倒錯は論外としか言いようがないだろう。もちろん、「これ以上消費税が上がったら商売できない」という小売・自営の人たちの声はあって然るべき(個人的にはこういう声こそが重要)だが、それに対する政治的な応答が「増税阻止」だけであるはずがない。

 そもそも、税負担と再分配をめぐる公平性の問題が争点化するという財政民主主義が機能していれば、当然ながら「大きな政府」(普遍的な社会保障)か「小さな政府」(残余的な福祉)かという対立軸に緩やかに収斂していくはずであるが、いまは税負担の問題が過剰なまでに争点化しているのに、「財政民主主義」が全く機能していない状態である。というより、専門家の間では一年十日の感情的な神学論争が飽きずに繰り返され、世論では国民が負担を我慢して甘受すべきか政治家・官僚がまず身を切るべきかという水準の議論にとどまっている(というよりその水準で議論する以外にない)。しかも、この二つの次元の対立が最悪の形で絡み合って、まるで数パーセントの増税が日本の命運を決するかのような、あるいは人間の良心や知性そのものが問われるかのような、異常な物言いが跋扈している状態である。つまり、「財政が破綻寸前の厳しさのに増税に応じないわがままは許されない」と、「増税したら経済が崩壊するのに官僚は身を切る前に国民に負担を押し付けて既得権を守っている」という、健全な政策論争など望みようもない対立構図になってしまっているわけである。さらに悪いことに、双方とも世論の支持を得ようと「身を切る姿勢」の緊縮削減策に邁進し、反緊縮と社会保障の具体的な問題を後景に追いやってしまっている。

 「反増税は最大公約数」というのは、もちろんよくわかるけども、それはあくまでネット上の経済論壇の話であって、テレビの政治討論、国会そして世論など政治の現場に降りていけば降りていくほど、反増税論は「増税の前にやるべきことがある!」という、景気の問題とは何の関係もない(緊縮財政志向の)話が主題となっており、そういう政局や世論の関心の前に需要喚起策や脱デフレの話が押しつぶされてしまうことは確実である。むしろ増税すべきか否かという、財務省の中でのみ公約可能な対立軸で、自分たちの政策を無理にを公約しようとしたことが、全ての間違いだったと言ってよいだろう。自分は反増税を言うべきじゃないと言っているのでは決してなく、ちゃんと本来の関心である「反緊縮」の文脈を前面に出してほしいと言っているだけである。
 
 これまでも、増税を政治の争点にすべきではなく、需要創出に関心を持つ人たち(社会保障論者を含む)が金融、公債、税などの手段を超えて政治的に連携すべきと主張してきたのだが、ほとんど理解・共感されたことはない。また泥沼にはまって無駄な時間を費やしていくいくだけなので、もうこれ以上は禁欲してこの話題は二度と書かないことにしたい*2


(財政民主主義に関するメモ)

 すいません禁欲できませんでした。これはメモということで言い訳。

 財政民主主義的な観点で言うと、国民全員が等しく負担と分配の関係に参加する「普遍的」なものと、負担する層と受給される層がそれぞれ相対的に限定されるべきという、「残余的(選別的)」なものの対立となる。そして「普遍的」なものと「残余的」なものについても、再分配の規模の大小で、「大きな政府」「小さな政府」に分けることができる*3。消費税が「普遍的」という違和感がもたれるかもしれないが、国民全員が均等に税負担に参加しているという根拠付けに親和的な税制であるということを意味している。


A 普遍的・大きな政府・・・消費税による社会保障制度の機能強化
B 残余的・大きな政府・・・所得税累進強化を通じて低所得者に分配
C 残余的・小さな政府・・・税ではなく市場や非政府組織による公共財の配分
D 普遍的・小さな政府・・・消費税による財政再建や企業負担の軽減


 補足しておくと、「残余的・大きな政府」は中間層以上に対する福祉給付が少なくなる体制であり、「残余的・小さな政府」は貧困層や障害者などに対しては政府の再分配を充実させる(ことを論理的に否定しない)体制である。この四つの対立軸をめぐって3つぐらいの政治勢力が収斂していくことになれば、財政民主主義が機能していると言うことができる。日本でこうした対立軸に沿った政局が形成されないのは、増税策の是非が税負担と分配とのあるべき関係がどうあるべきかという問題ではなく、(1)社会保障の恒久的財源の根本的な不足、(2)慢性的なデフレ不況、(3)「税金の無駄使い」に対する行政不信といった、「翼賛会的」*4な問題意識を背景に展開され、必然的に反対派の立場を最初から議論以前の「あり得ない」ものとする主張が優勢になってしまっているためである。

*1:もっとも反増税論者が、究極的には財務省とおなじ緊縮財政派であるというなら別に矛盾はない。

*2:と宣言しておかないと、また追記を重ねる悪癖に陥るので。

*3:これは便宜的なもので、個人的に「大きな政府」を掲げる場合はAの立場のみをさしている。

*4:(追記)増税策に対して反増税派から「翼賛会的」という批判があったが、事実として「翼賛会的」な状況があったとは思われない。こうした批判が意味しているのは、増税派・反増税派双方が、相手側の主張がそれなりの理由や正当性を根拠にしているという可能性を全く勘案していないため、「翼賛会的」という批判でしか応酬できないという事実である。「野田首相財務省の操り人形」など、相手を無知や利権で批判するような人格攻撃が吹き荒れたのは、そもそも増税の是非という争点自体がそうした人格攻撃を必然的に招くのである。当然ながら、こうした批判から交渉を通じた妥協や調整といった余地が生まれるはずがないので、優勢に立った側が相手側の主張を全否定して「数の論理」で押し切ってしまうことになる。これは押し切られた側から見れば確かに「翼賛会的」であるということになるが、逆に一度自分が優勢に立ったならば今度は相手側から「翼賛会的」と批判されることになることは免れない。こういう「翼賛会的」な問題を争点とした政局におかれた政治家は必然的に、メディア上ではポピュリスティックな物言いを繰り返して世論感情に訴えつつ、国会では「数」を確保するための、なりふり構わない醜い政治手段が横行することになる。今回自民・公明が「一体改革」法案に賛成したのは、増税という自らも掲げている「汚れ仕事」を民主党に被せ、しかも小沢派と分裂させて勢力を弱体化させ、次の総選挙で勝たせてもらうという、見え透いた政局目的以外の理由は何もない。なお社会保障論者があらゆる増税策に好意的になるのは、反増税派の経済学者にとっては苦々しいことであろうが、これはほとんどデフォルトだと理解してもらうしかないだろう。「ペイアズユーゴー」とか、そういう小難しい話では決してなく、日本における税負担が低いことで現役世代を中心とした社会保障(特に教育と雇用・労働関連)が切り崩されていることは、現実の政治過程で厳然と起こっていることである。

再び反緊縮派の立場から

 「社会保障と税の一体改革」関連法案が衆議院を通過したが、「増税」をめぐって政局が大混乱に陥っている国は、おそらく日本だけではないだろうか。ギリシアでもフランスでもアメリカでも、争点になっているのは「緊縮」の是非であって増税ではなく、むしろ世界の反緊縮派は(経済学者も含めて)富裕層増税を掲げている。日本の「増税反増税」は「緊縮/反緊縮」と緩やかにすら対応するものではなく、「増税しないと財政破綻」と「増税の前にやるべきことがある」の対立にすぎない。それぞれにおいて優勢なのは、公務員人件費を筆頭とする歳出削減を志向する緊縮派であり、反緊縮派はその中の少数派に甘んじて(というより甘んじているという自覚すらなくて)、政治的な勢力としてはまさに「存在しない」状態になっている。

 野田政権のように「財政再建」の文脈を強く押し出す形の増税策は、つまりは国民に「我慢」を要求するということになり、そうなると官僚と国会議員に対する、「増税の前に身を切る努力をしたのか」という不満や不信の声を高めていくだけであろう。財政再建的な増税策は、景気に対する影響という以前の問題として、人々の税負担の不公平感に対してきわめてネガティヴな作用をもたらす危険性が高い。特に2年前は「増税しなくても無駄を削れば財源はある」と豪語していた政権による増税策なのだから尚更である。しかし、だからと言って増税に反対すべきだ、ということでは決してない。もし増税を回避すると、今でも財源不足で深刻な教育や福祉の現場における歳出削減の圧力がさらに強まることは、火を見るより明らかだからである*1。それは特に、緊急性の高い高齢者向けよりも、若者向けの支出がターゲットにならざるを得ず、教育や雇用の社会保障の不足は格差・貧困の再生産を悪化させることになることは容易に理解できる。

 このように、本当に不況や貧困の問題をなんとかしたいと思っている人なら、「増税」や「反増税」をタイトルに掲げた政策論がいかに無意味で危険か(さらに言えば福祉国家論者や経済学者の自己満足でしかないか)、ということが理解できなければならない。たとえば、脱デフレのための需要創出に関心のある人が「反増税」を前面に掲げてしまうことで、「負担を押し付ける前に無駄削減の努力を」「まずバラマキ政策をやめるべき」という、緊縮志向の反増税世論に埋没してしまう(実際そうなっていた)わけである。本当は少数派になってもよいから、「反緊縮」「需要喚起」を掛け声にしたほうが、本来の政策を世論に向けてよりアピールできたはずなのだが、そうした人はほぼ皆無であった*2

 個人的には、税率は社会保障費の水準に応じて自動的に決まる仕組みにして*3、政治の争点を増税ではなく社会保障給付の水準と中身をめぐるものにすべきだと考えるが、どうも下手に経済や財政を勉強している「頭のいい人」ほど、増税をめぐる不毛な政局の罠にはまってしまった傾向がある*4。しかし増税策が決まった以上は、反緊縮・需要創出という本来あるべき(はずの)主張が全面に出て、金融緩和・財政出動社会保障の機能強化が一体となった形の政策論が展開されることを望みたい。

 (追記)

 「反増税」派の議論を眺めていると、社会保障費の削減・抑制に賛成の人が意外に多い。彼らは資産を持っている高齢層をイメージしているのかもしれないが、社会保障費の削減というミッションを厳しく与えられた官僚や政治家がどうするかといえば、緊急性が低く政治的な抵抗も弱い現役世代向けの社会保障の削減という手段に出ることは、容易に想像できることである。2000年代前半の社会保障費の抑制を最も厳しく被ったのは、都心に高級マンションを買う高齢年金生活層では決してなく、看護師や介護士、シングルマザーそして障害者などであったことは、誰の目にも明らかである。増税策を批判しようとするあまり、こういう普通の想像力を働かせようともしない人たちには、本当に憤りを感じる。

 さらに、自民・公明が要求する公共投資に対しても否定的な人が多く、中には増税するならすべて債務の返還に回すべきと挑発する反増税論者もいる。消費税に比べて、社会保障と公共事業の削減は需要の冷え込みに影響を与えないという論理や実証的な根拠は専門家にまかせるしかないが、いずれにしても需要と雇用の創出に悪影響を与える可能性のある政策には総じて批判的に接するべき、という自分の反緊縮的な立場とは全く相容れないものである。

 あと逆進的な消費税は社会保障に不向きという意見が相変わらずあるが、何度も書いてきたように、(1)低所得者にも税負担の対価として福祉給付の権利があるという根拠を与える、(2)現代の社会・経済において徴収の効率性と安定性が高い、(3)逆進性があるとしても給付面で考慮すべき、という三つの観点から社会保障に適しているというのが自分の(という以上に社会保障論者にとっては割と当たり前の)主張である。特に自分が重視しているのは(1)で、人間に感情というものがあってそれを強制的に抑圧しない限り、垂直的な再分配に誰も不満を抱かないなどということは有り得ない。というより、再分配の問題を真面目に考えていれば、こういう議論に必ず突き当たって、消費税に反対するにしてももう少し深みのあるものになるはずなのだが、相変わらず視野狭窄で軽薄な批判しかないところを見ると、再分配の問題に対して今まで大して関心がなかったのだろう、としか言いようがない。

 最後に、「経済成長」なしに財政再建社会保障の機能強化もできるはずがない、ということは言わずもがなである。ここで「経済成長」を敢えて言わないのは、専門家に遠慮して素人談義を避けるというのもあるが、それを真正面から否定している人はさすがに見当たらないからである。

*1:当然ながら湯浅誠氏を筆頭に、若手の貧困・福祉の現場の人たちの議論も、政府による過度な干渉や規制を批判するものより、政府の公的な支援が不足していることを訴えるものが圧倒的多数である。増税が回避されると、こうした分野に新規の(かつ恒久性の高い)予算がつけられることはさらに絶望的になる。あるいは、「派遣村」のような運動でも起これば特定の分野の予算は増えるが、それは貧困関連の予算増が教育・研究の予算を圧迫したように、貧困解決のための予算獲得の運動が、他のセーフティネットを掘り崩して貧困の再生産に加担してしまうという皮肉な事態が起きてしまうわけである。

*2:あるいは、増税批判は世論をひきつけるための戦略だったのかもしれないが、明らかにそれは大失敗であり、むしろ「野田首相財務省のあやつり人形」などという、反増税派の品のない紋切り型の批判にウンザリして、「増税派のほうがまだ真面目に考えている」と判断した人も少なくなかったように思う。

*3:(追記)「社会保障社会保険料で賄う、という大原則に立ち戻ればいいだけ」という反応があったがhttp://twitter.com/adachiyasushi/status/217742812966420480、この手の(増税批判のネタとして使われている)社会保険方式論者の誤解は、従来の医療・年金・介護という、安定した雇用を前提とした、病気や高齢のリスクに対する社会保障社会保険が筋だとして、出産・育児・職業訓練といった、機会を均等化して労働市場への参加を橋渡しするための現役世代向けの社会保障は、不安定な雇用に対するリスクを前提としているため、社会保険方式を採用できないことである。実際、世界的な傾向として社会保障財源における社会保険の比重は緩やかに低下している。後者の社会保障の必要性が高くなっている以上、税財源による社会保障の高まりは絶対に避けられないと考える。

*4:消費税を財源とした財政出動を掲げた小野善康氏と、氏を罵倒気味に批判していた人たちなどがその典型である。

「施し」から「環境」へ

 ここのところブログやツイッター生活保護の話題に完全に占拠されている状態だが、やはり気になったのは、再分配の「公平性」をめぐる感情の問題がほとんど語られていないことである。実名を上げて「不正受給」を告発した片山さつき氏のやり方は、率直に言って悪質極まりないものであるが、彼女をこうした行動に駆り立てているのは、「働き者の国民年金や、最低賃金より県によっては多くもらえる、正直な働き者がバカをみる」という*1生活保護制度に対する世論の「不公平感」の存在がある。この不公平感自体は決して理解不可能というものではなく、こうした負の感情がどうしてここまで強まってしまったのか、そしてどのようにして「公平性」を回復できるのかについて、真剣に考えていく必要があるだろう。

 一般的に言えば、政府の再分配に対する公平性を確保するためには、より均等な負担に均等な給付を対応させることが原則である。経済格差が存在しても、富裕層が税を負担して貧困者に再分配すればよい、という考え方に私が賛成しないのは、そうした方法は税負担の重い富裕層の政治的発言権をより高めるだけで、分配を受け取るばかりの貧困層に対するスティグマを強化する危険性があるからである。さらに、そうした垂直的な再分配の方法は、給付が受けられるか可能か否かの境界線を明確かつ強い形で線引きする必要があるが、その結果何が起こるかと言えば、境界線上で給付を拒否された貧困者のルサンチマンであり、そして貧困者が給付を受けるための醜い手段の横行である。結果として、貧困者に対するスティグマがより悪化し、社会保障制度への信頼も失墜してしまうことになる*2

 もちろん、日本は既に逆進的な社会保険負担と消費税が社会保障費と税収に占める割合が相対的に高く、90年代末以降に累進所得税も緩和されてきた。問題は、負担の逆進化が社会保障の抑制や削減とともに行われたこと、つまり逆進的な負担が再分配の権利の根拠としてではなく、所得の多寡に関わらず国民が均しく社会保障財政の厳しい状況を受け入れて「痛みに耐える」べきだ、という論理の下に導入されてきたことである。均等で逆進的な負担は、スティグマを伴わずアクセスの容易な均等な分配が対応しなければならないにも関わらず、実際は障害者福祉の現場など、「自立支援」の名の下に福祉給付のハードルが引き上げられ、スティグマがより強化されてきたことは周知の通りである。この結果どうなったかと言えば、税負担が高まったのにも関わらず分配が引き下げられた低所得層が、一方では「自分たちは我慢をしている」という自意識を強め、他方では生活保護受給者などの「我慢をしていない」人々に対するルサンチマンを募らせていったのである。

 生活保護受給者へのバッシングを生み出さないためには、人々の人生や生活における政府の社会保障の役割をもっと普遍的なものにしていくしかない。旧来の日本の社会保障制度が、男性雇用を通じた企業福祉を中心として、それを専業主婦と家族が補完し、政府の直接的な福祉給付はリタイアした高齢層に相対的に集中していたことは、既に多くの人によって論じられている。政府も現役世代の社会保障を担っていなかったわけではないが、それは経済規制を通じた雇用保障という間接的なものであって、言わば「裏方」としての役割であった。こうした仕組みの下では、人々は企業と家族によって生活が保障されてきたという実感が強く、自ずと政府の直接的な福祉給付に依存することは「よっぽどの事情」がなければならない、というイメージが形成されることになる。結果として、「よっぽどの事情」がないと見られる場合には、容易にバッシングを生み出してしまうわけである。

 そうではなく、出産・育児、進学、就職といった人生の節目節目で政府の直接的な支援を受けることが「当たり前」になっていれば、生活保護受給者に対する視線もかなり違ったものになるはずである。政府の社会保障を「家族の絆」と対立させて語る人は依然多いが、そのように考える人が多いのは、逆説的なようだが家族を対象とした政府の社会保障が依然として手薄だからである。例えば、育児休暇や介護保険などの政府の社会保障による支援を抜きにした「家族の絆」など現実にあり得ないのであって、もしそうした支援がなければ育児や介護の負担に耐えかねて(あるいはそうした負担を忌避して)崩壊する家族が増えることは、容易に理解できるはずである*3。「政府に頼らず」に子供を育てて親を介護してきたという自意識の強い真面目な人ほど、当然「扶養義務」を果たさない人に対して厳しい態度をとることになるのは自然である。

 「不正受給」問題で最も間違った解決法は、今自民党が推し進めようとしている、審査の厳格化や親族の扶養義務の強化である。厳格化すれば「本来給付されるべき弱者」*4のハードルがさらに上がり、今まで特に問題視されてこなかった「不正受給者」が、新たに続々と「発見」されていくだけの話である。そして、親族の扶養義務を強化すれば、繰り返すように扶養の負担に耐えられない人が続出して「家族の絆」が崩壊し、そうした風景が「日本の美徳が失われた」という保守派の嘆きや、「自分たちは生活を切り詰めて両親を養っているのに」という人々のルサンチマンをさらに掻き立て、最終的に生活保護制度を崩壊に導くことになるだろう。

 まとめると、生活保護バッシングのような現象を生み出さないためには、均等な負担に対応したアクセス・フリーな(低所得者限定ではない)普遍的な社会保障制度の構築と、人々の人生と生活に対する政府の社会保障制度の役割強化を通じて、生活保護などの福祉給付が政府の「施し」ではなく、人々が生きていくために不可欠な「環境」であるという実感を、国民全体が持ってもらうことが必要である*5。しかし今の日本では、政府の社会保障が現実に人々の生存と生活から切り離すことのできない厳然たる「環境」になっているにも関わらず、それがあたかも「施し」であるかのような理解が、依然として大きな声で語られている状況である。

(補足)

 累進所得税などの垂直的な再分配は筋がよくない、という私の議論がピンと来ないという人は、飲み会では上司や先輩がより多く負担するのが「当たり前」である、という風景を思い起こしてもらえれば十分である。言うまでもなく、上司や先輩がより多く負担するのは、目に見える形で「上下関係」が存在し、それを維持・強化するためであって、所得の多さで決まっているわけでは必ずしもない。逆に言うと、上下関係が存在しない同窓会の場合に、「自分は貧乏だから会費は他の人の半分にしてくれ」などという言い分が通用するかどうかを、考えてみればいい。

 要するに、上下関係が原理的に存在しない(はずの)国民どうしの間で同様の垂直的な再分配をやろうとすれば、高い負担に応じている富裕層・中間層の不公平感が蓄積されやすいのである。逆に、かつて累進所得税が公平性を確保できていた理由の一つは、富裕層と貧困層の関係が単なる所得の多寡という以上の「上下関係」(実質的な権力関係というよりは規範・イメージとしての)*6であったから、と理解することができる。もちろん政府の再分配政策と、飲み会や同窓会は違うと言われるかもしれないが、負担と分配の公平性の感情という問題については、決して不適切な喩えではないと考える。

 できるだけ均等な負担を課した上で、政府の社会サービスへのアクセスをフリーにする、というのがもっとも不公平感を生む可能性の低い再分配の方法である。ただ、再分配を確約できたとしても、低所得者が分厚い層を成している場合は、実際問題として均等な負担を課すことは困難である。だから結局のところ、不公平感を生まないための基本的条件として、野田首相も語っている「分厚い中間層の再建」、つまり安定した経済成長と健全な雇用の創出、劣悪な労働環境に対する規制強化などの政策が遂行される必要がある。

 自分が片山さつき氏を心底許せないと思うのは、生活保護社会保障制度に対する「無知」「誤解」を垂れ流しているからではなく*7、普通に真面目に働いている人が感じているであろう不公平感を利用・扇動して、その感情を貧しい人の再分配を切り下げる政策に誘導していることにある。多分「頭のいい人」は、「自分ばかり損している」という、人間であれば誰もが(特に生真面目な人ほど)抱きがちな卑小な感情の問題にグジグジと悩むこともなく、「ベーシック・インカム」などを掲げて「解決」できてしまうのだろうが、自分は再分配の問題を考えるというのは、まずはそうした世間の卑小な感情にきちんと向き合うことだと思っている*8

*1:http://twitter.com/katayama_s/status/210291233820643328

*2:ベーシック・インカムを掲げる人もいるが、これは働かずに税金も社会保険も負担せず、給付を一方的に受け取ることに誰も不満を抱かないという、まさに近代的な価値観の根本的な転覆を必要とするものである。スティグマの問題は、現行の社会保障制度の枠組みで十分に対応可能な問題であると考える。

*3:もちろん、「不正受給」をバッシングする人たちの言う「家族の絆」はあくまでイデオロギーなのであって、現実の家族が崩壊しようがあまり興味がないのかもしれない。

*4:もちろんこれは「不正受給」を批判する人の頭の中にしかない幻想である。普通に考えて、生活保護を受給するほどの状況に追い込まれた人は、平均的な勤労者よりも「生活がだらしがない」「人生に真面目じゃない」人たちであろう。

*5:「税と社会保障の一体改革」に不満を言えばきりがないが、それでも今の日本の政治の中で、この方向に半歩でも前に進もうとしているのが「一体改革」周辺であるのも、否定できない事実である。しかし、政治家もメディアの評論家もブログやツイッターでも、「増税」の是非にのみ異常に関心が集中しており、「一体改革」は消費税増税のための言い訳でしかないような扱いになっている。批判するにしても、まず「一体改革」の成案とその周辺の社会保障論者の著作を熟読すべきところだが、管見の限りそうした誠実な態度を示している人は一人もいない。それどころか、「一体改革なんたら」などと茶化した上で、橋下大阪市長の他愛もない「維新八策」などに真面目に付き合っている人がいるが、本当に唖然とするとしか言いようがない。

*6:このように所得の格差を上下関係としてイメージさせるのに、おそらくマルクス主義社会主義運動が非常に大きな役割を果たしていた。

*7:というより、彼女ほどのキャリアを積んだエリートなら「分かってやっている」「意図的に国民を騙している」と信じたい。

*8:BI論者ほどそうした感情に向き合う粘り強さが必要とされるのだが、世のBI論者というのはそういう感情に無神経な人か、あるいは官僚・公務員に「中間搾取」されているという被害者感情を抱えている人か、いずれかの場合が多い。

反緊縮派の立場から

 「増税」を政治の争点にすべきではない、というのは1年以上前から繰り返し何度も書いてきたが、残念ながら野田政権の成立以降、「増税」めぐる政局や政策論争はますます強化されている。

 「増税派」には、増税によって財政健全化の道筋がつけば国債の信任も上昇して海外からの投資も活発化するという者もいれば、企業の法人税社会保険の負担を減して消費税に置き換えることで経済の活性化が図られるという者や、増税財源による社会保障の機能強化で需要が創出されると考える者などがいるが、本来が相互にほとんど相容れない主張である。今回の増税策は、一応「社会保障と税の一体改革」案を根拠にしているが、増税派の大半は社会保障の機能強化などにはあまり関心がなく、メディア上でも社会保障の専門家の存在感は極めて弱い*1

 「反増税派」も、まず公務員の人件費をはじめとする徹底した歳出削減が必要だとする者、民営化・規制緩和などで経済成長すれば増税は必要ないとする者、財政を少々悪化させても国債増発による公共投資を優先すべきとする者、法人税増税や累進所得税の強化を掲げる者など、その政策の理念と中身は増税派以上に分裂している。反増税派の基本にはデフレ不況下の税負担は需要を縮小させるという理解が(おそらくは)あるはずだが、彼らの大半は財政政策においては歳出削減を志向するものであり、金融緩和や財政出動に熱心なグループは依然として相対的に少数にとどまる*2

 増税派と反増税派の対立を、フランスやギリシアをはじめとした諸外国における「緊縮/反緊縮」の対立の日本ヴァージョンとして解説している人も多いが、似て非なるものであることは明らかである。先日のフランスの大統領選挙を見ても、諸外国の「緊縮/反緊縮」は、「保守/リベラル」「小さな政府/大きな政府」という大きな政策理念の対立軸と緩やかに重なっており、増税策は明らかにそのサブテーマの扱いでしかないが、日本では「増税」が前面に出ることで、それぞれが緊縮派と反緊縮派の呉越同舟という状態になっている。諸外国の反緊縮派は富裕層増税を主張していることが多いが、日本の反増税派では共産・社民などごく一部に過ぎず、むしろそうした政策を「社会主義的」と反発するであろう人たちも、少なからずいる。

 世論は今のところ「反増税」に傾いているが、それは「国民に負担を押し付ける前に身を切る努力が足りない」「税金の無駄遣いが放置されたまま」というものであって、それは明らかに「反緊縮」ではなく「緊縮」に親和的なものである。反増税派の政治家の多くも、そうした緊縮的な世論に同調する形で(というよりそうした世論を煽った当人である場合が多い)、民主党政権下の歳出拡大策を「バラマキ」と厳しく批判している。

 いずれにせよ、「増税反増税」の対立軸は、政治のさらなる混乱と政策の停滞を招くものでしかなく、こうした枠組みで政権や政党の政策論を整理したり評価したりすることは、一日も早く放棄されるべきである。小泉型の緊縮的構造改革を批判して「需要」「雇用」を掲げた菅直人が、財源を消費税に求めたために同じ「需要」を重視している反増税派からも総攻撃され、結果として緊縮財政派と連携するという顛末を想い起こしてもらえれば充分だが、「増税反増税」を争点化した選挙戦や政界再編は、どのような政策論的な立場をとるにせよ、人々が「こんなはずじゃなかったのに」と落胆する風景を生み出さざるを得ないだろう。

 さらに、増税派と反増税派は目の前の野田政権の増税策を受け入れるか否かという以外のまとまりが全くないので、政策的な妥協も調整も絶望的に難しくなっている。そのため多くの政治家は、現場での説得に汗をかくよりも、メディアで財政破綻の危機を喧伝したり、官僚の利権や陰謀を暴きたてたりなど、極端かつ扇情的な物言いを繰り返すことで、世論の「空気」を味方につけることに一生懸命になりがちである。こうした政治手法が、政治と行政に対する不信をより悪化させ、そうした不信につけこもうとする野心家を利するものでしかないことは明らかだろう。

 以上のように、今の「増税反増税」の過剰な争点化が続くことは、日本の政治における民主主義の機能不全をもたらし*3、そうした機能不全による政治と行政に対する不信が、財政や経済の状況をより深刻化させる危険性が高いと言わざるを得ない。「反緊縮派」の自分からすれば、政治もメディア・世論も緊縮派が優勢な中で、本来なら需要の喚起と雇用の創出という目的で、手段の違いを超えて連携しなければならないのだが、現在は目的を見失った手段の違いに基づく対立ばかりが目立ってしまっている。

(追記)

 例えば、反増税派が超党派で野田内閣の増税策を阻止できたとして、その後の政策論はどうなるだろうか。メディア上で見られる反増税派の主流の見解や世論感情に即していけば、「増税の前に無駄遣いの徹底した見直し」が明らかにトップ・プライオリティであり、金融政策に熱心なのはあくまで一部でしかない。民主党小沢グループがこだわる「マニフェスト」や、新規国債の発行、公共事業政策、TPPなどの問題では、完全に反増税派の内部で深刻な分裂を招くだろう。つまり、世論の支持が高い公務員人件費の削減はすぐに実行されるだろうが、その後に世論の理解や反応が弱い金融政策が実施されるかどうかは未知数で、おそらくは、その後のTPPなどの問題をめぐる対立で不可能になる可能性が高い。当然、その間にも福祉や教育の現場の苦境は財源不足でさらに深刻化し、結果としてデフレ不況の中でさらなる「民営化」が進んで、貧困者の自己負担はより増え、福祉の現場の労働環境は過当競争の中で悪化していくことになる。

 しかし、「反増税」ではなく「反緊縮」で連携することができれば、税や金融などいかなる手段を採用にするにしても、それが需要の創出に貢献するような工夫や配慮が一貫して行われることになる。「増税」を争点化すると、「財政再建」や「徹底した無駄削減」をプライオリティに置く形で社会保障改革や金融政策を進めざるを得ないが、「反緊縮」を前面に出すことができれば、社会保障の機能強化と需要・雇用の創出をきちんとトップ・プライオリティに位置づけることが可能になる。経済学者や社会保障の専門家からみれば、「邪道」と言いたくなる政策も採用されるかもしれないが、それは「反緊縮」と需要創出という政治的目標からみれば、あくまで二次的な問題に過ぎない。

 いずれにせよ、「反増税」ではなく「反緊縮」という言葉が、もっと日本でも広まることを望みたい。

*1:社会保障論者の中には、北欧モデルをそのまま日本にも適用しようとする無邪気な人もいないわけではないが、自分はもっと消極的な理由で、つまり増税を回避しつづけると、「財源がない」の言葉で沈黙させられている教育や福祉の現場が、さらに悲惨な状況に追い込まれてしまうことを懸念するからである。医療や介護など今でもギリギリの状態で運営している緊急性の高い分野を減らせないとすると、自ずと教育・育児・研究・労働など緊急性の低い若い世代向けの歳出がさらに圧迫されることになる。そうなると、例えば若者の貧困問題が一時的に注目されて予算がつけられたとしても、貧困の根っこにある教育や労働の環境はさらに悪化するという、マッチポンプに陥ることになる。国債発行の増額や所得税の累進強化を主張している政治勢力や経済・財政の専門家は、いたとしても少数で例外的であるため、どうしても消費税を前提にして財源の問題を考えせざるを得ない。

*2:反増税派には「経済成長による税収増」を掲げる人が多いが、そもそもこういう考え方は、政府の再分配政策を企業の収益を従業員に分配することと同一視するという、致命的な誤解がある。社会保障に対する予算を配分するには、税や公債などの財源上の根拠がなければ不可能なのであって、不確定性の強い経済成長による税収増を当てにすることはできない。税収増分は財政再建に回すべきであり、生存・生活の保障に関わる分野の財源は安定的な税負担を根拠にしなければならない。

*3:ここで言う「民主主義の機能不全」とは、有権者の大多数が、政権与党という形であれ、野党という形であれ、自らの政治理念や生活上の利害関心が国会や地方議会に代表されている、という実感を喪失している状態を指す。

現代日本の「テレビ政治」

 日本の政治動向を観察するにはどこを中心に見ればよいのか、と問われれば私は国会ではないことはもちろん官僚組織ですらなく、少し迷いつつも「テレビ」と答える。誤解を恐れずに言えば、この10数年を振り返ると、テレビの政治報道番組や討論番組などで主流となってきた主張の通りに、全体として政治が動いてきた印象がある。

 テレビは既に古いメディアであるかのように言われることが多く、確かに産業としては縮小・衰退局面に入りつつあるのかもしれないが、現実政治においては決してそうではない。若い世代の「テレビ離れ」が指摘される一方で、人口層が多く政治的にもヴォーカル・マジョリティである年金生活者層においては、むしろ「テレビ漬け」とも言える現象が進んでいる*1。「テレビばっかり見てないで・・・」という、かつての親の子どもに対する小言は、今や高齢者層にこそ当てはまる言葉になっている。

 1990年代初めくらいまでは、テレビで政治動向が理解できるということは基本的になかった。「利権政治家」と呼ばれてテレビで連日叩かれている人物が、いざ選挙になると圧勝で当選というのは、田中角栄に限ったことではなく、どの地域でも極めてありふれた光景であった。1989年の消費税導入を巡っては、テレビでは賛成派はほとんど「非国民」の扱いであったが、自民党も選挙で敗北したとは言えその政権基盤を揺るがすほどのものではなく、今から見ればごく限定的なものであった。こうした時代にあっては、新聞やテレビを見ても政治を理解できるということは基本的になく、むしろ政治を理解することとは、地方で隠然たる声望を持った政治家や、その背後にある土建業界や農協、後援会などの地縁組織といった利益団体の動向と、そうした利害関係者を調整していく官僚組織の役割を観察していくことにほかならなかった。

 しかし、こうした形で政治を理解することが可能であったのは、安定した仕事に従事している現役労働者が社会の圧倒的マジョリティであったからである。つまり、人々が仕事を通じて関わっている団体・組織の利害関係の網の目を解読することで、政治の動きも概ね把握できたのである。しかし2000年代以降、仕事を通じた利害関係の網の目から「自由」になった年金生活者が増大し、自ずと家でテレビを見る時間が増えたことで、テレビの政治世論形成における役割が圧倒的に大きくなっている。結果として、近年はテレビで評判を悪化させた政治家が選挙で圧勝するという現象はごく限られたもの(鈴木宗男亀井静香など)になり、選挙の動きを見ても、2005年の郵政解散選挙以降、07年の参院選、09年の衆院選、10年の参院選と、選挙結果が事前のテレビの政治報道における雰囲気を、ほぼ100%再現するような形になっている*2

 インターネットが当たり前すぎる日常になっているとつい忘れがちであるが、日本の政治世論の中心である高齢層の過半にとって、依然としてインターネットは理解不可能な別世界のメディアあり続けているのが現実である*3。インターネットの情報収集が中心になっている我々にとって、新聞・テレビ発の情報が素朴に信頼できないことは自明すぎる前提であるが、高齢世代にとっては新聞やテレビにおける政治報道が政治に関する情報源のほぼ全てであり、そうした既存のマスメディアに対して全体的に高い信頼を置く傾向が強い。

 もちろん、テレビの政治に対する影響力が強くなることそれ自体は、別にいいことでも悪いことでもない。問題は、テレビに出演している政治評論家やジャーナリストたちの質が、そうした変化に全く追いついていないことである。たとえば今でも、官僚による規制や利権の構造とか、「既成政党VS無党派層」の対立とか、どの党の支持団体の動向とか、現在の日本の政治全体の流れを理解するにはもはや全く適切ではない旧態依然の図式で*4、視聴者相手にもっともらしく政治を解説している人が多い。そして、かつて鳩山元首相や菅前首相を「わかりやすい」と持ち上げ、「民主党に一度やらしみてよう」となどと語っていた同じ人が、いま民主党政権を嘲笑的に批判しているが、これは、テレビの影響力の乏しさゆえに無責任な言動が許されていたかつての時代から、テレビの政治報道の現場の意識が全く「改革」されていない証拠と言えるだろう。

 では、テレビが自らの影響力を真摯に受け止めて変わっていけばいいのかというと、必ずしもそう単純には言えないところに問題の難しさがある。例えば、1990年代まではそれなりに報道されていた過労死や過労自殺の問題がほとんど報道されなくなり、むしろ最近のバラエティ番組の多くが(いわゆる「ブラック企業」を多く含む)企業の宣伝番組と化していることが示しているように、テレビは世論形成に対する影響力を強めているにも関わらず、業界としての力が弱体化しているというジレンマがある。つまり、テレビ業界が自らの影響力を自覚したとしても、それをコントロールしていく能力を現実にはほとんど持ち合わせておらず、むしろその影響力を利用しようとする企業家や在野の評論家・ジャーナリストたちの草刈り場となっている状態なのである。

 自分はメディア論は全くの不案内だが、今の日本で研究対象として注目されるべきメディアがあるとしたら、ツイッターフェイスブックなどではなく、やはり依然としてテレビ(あるいは大手新聞)であることは疑い得ないと思う。「アラブの春」と「フェイスブック」の関係を指摘する解説に見られるように、新しいメディアの出現が政治・社会の変化をもたらしたと理解したがる人は少なくないが、正直なところ「それ本当かよ」と思うことが多い。むしろ、まずは社会に深く根を張った既存のメディアの役割の重要性という、当たり前の話から始めるべきだろう。

(追記)

 既に指摘されているように、世代とメディア・政治意識の関係に関する実証的な調査などについては、こちらの情報や理解が不十分であると思われるので、色々と批判をいただければ幸いである。当然ながらテレビは若年層にとっても中心的なメディアであり、インターネット上でも「みのもんた」をより過激化したような意見や主張は少なくないから、テレビ報道と「テレビ漬け」の高齢層だけに現在の日本における政治風景に対する責任があると言いたいのでは決してないが、結果としてそのように読めるような記事になってしまっているかもしれない。

(追記2)

 自分がこういうエントリを書いたのも、官僚・公務員の「利権」「既得権」が現在の日本の政治経済の根本問題であるかのような、全く不適切な理解が世論に広まっていて、そのことが政局の混乱や経済・社会保障政策の停滞の背景にあるという問題意識に基づいている。政権与党がどんな政策をとろうとしても、「税金の無駄遣い」「まず自ら身を削れ」と批判されて、そのたびに停滞してしまうのは、官僚・公務員の「利権」「既得権」に対する世論のルサンチマンが背景にある。

 そして、こうした不適切な理解の中心にいるメディアは、明らかにテレビの政治報道である。そこで、テレビの影響力を強めている要因を探ると、一つには仕事を通じた「しがらみ」から解放され、一日の多くをテレビに費やすようになった年金生活者層の増大が挙げられるのではないか、と考えたわけである。もともと日本では、何となく寂しいからという程度の理由で、特に見たい番組もないのにテレビをつけっぱなしにしている家庭が多い。

 よく「ポピュリズム」と言われるが、自分はそう表現することには強い抵抗感がある。連日のように「天下り」や「年金の官民格差」のニュースを見続けていれば、そして逆に官民に共通する深刻な過労の実態がほとんど報道されていなければ、真面目な人ほど橋下市長のような政治家を支持するようになるのは、別に当たり前のことである。自分が腹を立てているのは、こういう真面目な人たちの意識を誤った方向に誘導して、自らの自己顕示欲のための食い物にしている(自覚のない人を含めて)人々である。

(「橋下人気」とテレビについて)

 テレビと日本の政治の関係を象徴する現象が「橋下人気」だろう。「橋下人気」の背景をどう理解するにせよ、まず出発点となるべき認識は、彼が特に60代以上の古参のテレビ・ジャーナリストやニュース番組の司会者たちに、こぞって大絶賛されているという事実である。インターネット上では、彼に対する評価は完全に二分しており、メディアによっては批判が大勢のところもある(たとえばツイッター)のと比べて、高齢世代のテレビ・ジャーナリストたちの橋下への全面的な傾倒はきわめて顕著であり、高齢層は保守的であるという旧来の通念からすれば異様ですらある。

 このことが意味しているのは、橋下の問題関心や社会に対する認識が、親ほど年が離れている高齢世代と、ほとんど共通しているということである。生きている時代や場所が違えば、問題意識も自ずと異なるのが当たり前であるが、橋下に関しては、政治的な問題意識が高齢世代のテレビ・ジャーナリストたちのそれと全くと言ってよいほど同じである。実際、彼の話を聞いていてつくづく感じるのは、現在の日本の政治・社会に対する理解の仕方が、2000年代以降の「格差」「貧困」「労働」に関する「新しい」理解を吸収してきた我々にとって、この10数年がまるで何もなかったかのように「古い」ことにある。「新しい」のは、あくまでその攻撃的な言動(および一部の個別政策)であって、彼の語る社会認識そのものに新しさはほとんどない。

 おそらくこうした「古さ」が、橋下が古参のテレビ・ジャーナリストに支持される理由なのだろうと思う。自分は高齢層が若い世代を搾取しているかのような議論には全面的に反対だが、テレビを中心とする高齢世代の古びた社会認識が、結果的に若い世代に厳しい政策論を導いている、と感じることは多い。

(追記4)

 これは上記の仮説に重大な変更を迫るものかもしれないので、貼っておく。若い富裕層・中間層が、橋下市長を支持しているという調査結果。

 http://ow.ly/i/zbgv

*1:「男性は40代までは漸減、50代は横ばいで、60代以降はむしろ増加。女性も同様に30代までは漸減で40〜60代は横ばい、70歳以上で増加の動きを見せている。最初のグラフにあるように、テレビを観る人は漸減しているのだから、全体としてのテレビ視聴時間も減りそうなものだが……実のところ、全体量ではほぼ横ばい、むしろ微増の傾向すら確認できる。これはひとえに長時間視聴する高年齢層が増加しているから。」「普通のメディアやサービスなら「高齢者が抜けてその分若年層の割合が増え総量が維持される」新陳代謝が起きるわけだが、テレビの視聴に関しては「若年層が減り高齢者が増え総量が維持される」逆新陳代謝が起きているhttp://www.garbagenews.net/archives/1752583.html

*2:2005年の郵政解散選挙については以下の朝日新聞の調査記事がある。「朝日新聞社が22、23日に実施した全国世論調査によると、今回の総選挙では、テレビの視聴時間の長い層ほど自民候補に投票した人が多い傾向にあることが浮かび上がった。・・・・・視聴時間と総選挙の投票先との関係を見ると、「2時間以内」で自民候補に投票したと答えた人は40%、「2〜4時間」では44%、「4時間以上」では47%と、視聴時間が長いほど多くなっている。視聴時間は男性より女性の方が長めだったが、投票先との関係では男女ともほぼ同じ傾向を示した。また、テレビの視聴時間は年代別でみると、高年齢層ほど長く、70歳以上では「4時間以上」が3割近い。調査では高齢者や女性で自民候補への投票が多めという結果も出ている。テレビ報道が直接、自民候補への投票を促したとはいえないものの、視聴時間が長い、こうした層が自民大勝を後押しした側面もうかがえる」(「TV長く見た人、総選挙で自民候補に投票 朝日新聞社世論調査」2005年10月26日朝刊)。また読売新聞はネット上で2009年の衆院選直前に、以下のような調査を行っている。「平日の1日のテレビ視聴時間ごとに比例選の投票先を見ると、30分未満の人は自民党24%、民主党29%と5ポイント差だったが、2時間以上・3時間未満は自民党17%、民主党38%で、視聴時間が長いほど民主党への支持が強まる傾向が出た。」(「自民評価、やや持ち直し…読売ネット調査」2009年8月8日)(追記)どこまで信頼性のおける調査かは不明だが、民主党「政権交替」選挙に関して以下のような調査がある。「全体では、政権交代を望んだのは、過半数に達せず、42%であり、「民主党に投票する」は32%、「自民党に投票する」は12%である。性別世代別でみると様相は異なる。政権交代を60%以上の人々が期待したのは、50代以上の男性の「断層世代」、「団塊世代」、「戦後世代」だけである。この期待は、民主党への投票に直接繋がっている。この意味で、民主党衆院選の勝利は、「男性中高年による成熟革命」だった。さらに、子育て期の「団塊ジュニア」や「新人類」も取り込んだことも大きい。」http://www.jmrlsi.co.jp/menu/mnext/d02/03/election2009.html この手の調査はそれほど豊富ではなく、きちんと実証するというのは難しいが(正直場末のブログでは限界)、ではどういう筋で現代日本の政治現象を理解すればよいのかという話になると、今のところここで提示した話以上のものが今のところよくわからない。

*3:「インターネットを利用している者の比率は、全体で44.7%であるが、男では20歳代で78.7%であるのに対して70歳以上は14.5%、女では20歳代で79.6%であるのに対して70歳以上は3.5%と年齢によって大きな利用率の差がある点が目立っている」http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/6220.html 最近は高齢層の利用率も大きく増えているようだが、ただ「インターネットを利用している」と言っても、テレビのように視聴者が似たような政治報道番組を見ていると仮定することができないので、利用率と政治動向との関係についてはその質や中身についての繊細な調査が必要になる。

*4:ごく狭い部分を理解するには有効だったりするので厄介なのだが。