当たり前の政治が欲しい

 現在、「増税」をめぐって政界再編が起きようとしている。民主主義の政治において重要なのは適切な争点の設定であるが、まさに「増税」ほど不適切な争点はなく、日本の政局の混乱および政治(という以上に民主主義への)不信、政策の停滞の元凶であると断言してよい。

 ブログやツイッターなどで発言力の高い経済系の人が増税策に反対しているのは、消費税増税の景気や財政に対するネガティヴな影響の問題である。そうした問題は「科学」に属するので、学問的なスキルを身につけた専門家同士で冷静に議論してもらうしかなく、そこに政治的な判断の入り混む余地はなく、当然ながら選挙の争点にもなり得ない。

 そうした専門家で議論されるべき増税の問題が、政治の争点として前面化するとどうなるか、既に日本の現実が語っている。社会保障はもちろんのこと、景気や財政の話ですら重要性がなくなってしまい、「国民は我慢して増税を受け入れるべき」か、それとも「増税の前に政治家・官僚が身を切るべき」かという、科学的に決着をつけるべき問題が、誰が我慢すべきかという不毛な精神論の問題になってしまう。そうなると、専門家の間で出した結論がひっくり返されたり、あるいはたまたま同じだったとしても、実際に遂行される経済政策や社会政策は全く期待したものでなかったり、ということにならざるを得ない。

 社会保障問題で増税に賛成している人や、デフレ脱却への関心で増税に反対している人は、まずは足もとの政治勢力や世論をじっくりと眺めるべきだろう。そうした「増税反増税」という一点では共有している勢力や世論の声が、自分の関心とあまりに隔たっているということはすぐに理解できるはずであり、ゆえに「増税」をめぐる政策論争や政局がそもそも不毛なものでしかない、ということもただちに認識し、そうした不毛な政局から撤退しなければならない。

 さらに言うと、科学という「真理」を追究すべき問題を政治の争点にしてしまうと、政治的な敵対者は価値意識や利害関心の違いではなく、「真理ではない」ものとして抹殺の対象になってしまう。人種主義や共産主義というと、今は単なるイデオロギーに過ぎないが、その当時信奉している人たちにとっては、誰にも否定的できない立派な「科学」および「真理」であった。そうした「真理」が全面的に政治化したことで民主的な政治が破壊され、その後に官僚主義による専門家の専制支配が打ち立てられたわけである。

 もちろんファシズム共産主義の歴史は極端だとして、たとえば「デフレ不況下の消費税増税は経済を破壊する」(逆に「早く増税しないと国債金利が上昇して財政破綻する」)という認識が全国民に広く共有され、そうした認識に基づく政権ができたとしても、それは既に民主主義の社会ではないだろう。そこにおける政治的な敵対者は、政治信条や利害関心の異なる(がゆえに尊重される)者ではなく、「真理を理解しない者」(ゆえに軽蔑すべき者)になってしまうからである。科学の問題は科学の土俵において「民主主義」が行われるべきで、政治の土俵において行われるべきではない。

 財務系の学者や政治家が緊縮増税を訴えるのは不愉快だが仕方ないとして、問題は反対する側が、彼らのつくった土俵に安易に乗っかって「反増税」で応酬してしまったことで、需要喚起・脱デフレや社会保障の機能強化という「反緊縮」の問題が争点から消えてしまったことである。政治において敗北というのは勢力の多寡で負けるということではなく、自分が選択すべき争点が消えてしまうことである。たとえ少数派だとしても、「反緊縮」を訴える足場がしっかりあることが重要であるにも関わらず、「反増税」論者は「デフレ下の増税は税収を減らす」という(当然論戦にかけては百戦錬磨の財務系の人も織り込み済みであろう)批判ばかりにかまけてしまうことで、その足場を自ら解体してしまった*1

 緊縮や反緊縮という以前に増税阻止が重要なんだという人がいるかもしれないが、それは全面的に間違っていると考える。そういう増税政局への加担が増税阻止すら実現できず(よしんばできたところで泥沼の道でしかなく)、かえって「増税派」を政治的に結束させ、増税派・反増税派ともに緊縮財政派の一人勝ち状態になってしまっていることは、既に現実が証明していることである。自分は諸外国と同じように、「緊縮/反緊縮」あるいは「保守/リベラル」「大きな政府/小さな政府」を対立軸として、政策手段の問題については専門家どうしで冷静に議論してもらうという、当たり前すぎる当たり前の政治を希望しているだけなのだが、日本は政策手段の問題が政治の対立軸となって感情的な神学論争に陥っている状態である。

(追記)

 このエントリは「財政民主主義」を否定するものではないかというコメントがあったので、確かにそういう誤解を招きやすいところがあったが、財政民主主義は税負担の公平性をめぐる討論や合意に関して意味を持つ概念であって、消費税増税の景気に対する影響うんぬんという問題は民主主義で討論かつ選択できる問題ではない。少なくとも、専門家の間で決着のつかない問題を政治に決断してもらう、などという倒錯は論外としか言いようがないだろう。もちろん、「これ以上消費税が上がったら商売できない」という小売・自営の人たちの声はあって然るべき(個人的にはこういう声こそが重要)だが、それに対する政治的な応答が「増税阻止」だけであるはずがない。

 そもそも、税負担と再分配をめぐる公平性の問題が争点化するという財政民主主義が機能していれば、当然ながら「大きな政府」(普遍的な社会保障)か「小さな政府」(残余的な福祉)かという対立軸に緩やかに収斂していくはずであるが、いまは税負担の問題が過剰なまでに争点化しているのに、「財政民主主義」が全く機能していない状態である。というより、専門家の間では一年十日の感情的な神学論争が飽きずに繰り返され、世論では国民が負担を我慢して甘受すべきか政治家・官僚がまず身を切るべきかという水準の議論にとどまっている(というよりその水準で議論する以外にない)。しかも、この二つの次元の対立が最悪の形で絡み合って、まるで数パーセントの増税が日本の命運を決するかのような、あるいは人間の良心や知性そのものが問われるかのような、異常な物言いが跋扈している状態である。つまり、「財政が破綻寸前の厳しさのに増税に応じないわがままは許されない」と、「増税したら経済が崩壊するのに官僚は身を切る前に国民に負担を押し付けて既得権を守っている」という、健全な政策論争など望みようもない対立構図になってしまっているわけである。さらに悪いことに、双方とも世論の支持を得ようと「身を切る姿勢」の緊縮削減策に邁進し、反緊縮と社会保障の具体的な問題を後景に追いやってしまっている。

 「反増税は最大公約数」というのは、もちろんよくわかるけども、それはあくまでネット上の経済論壇の話であって、テレビの政治討論、国会そして世論など政治の現場に降りていけば降りていくほど、反増税論は「増税の前にやるべきことがある!」という、景気の問題とは何の関係もない(緊縮財政志向の)話が主題となっており、そういう政局や世論の関心の前に需要喚起策や脱デフレの話が押しつぶされてしまうことは確実である。むしろ増税すべきか否かという、財務省の中でのみ公約可能な対立軸で、自分たちの政策を無理にを公約しようとしたことが、全ての間違いだったと言ってよいだろう。自分は反増税を言うべきじゃないと言っているのでは決してなく、ちゃんと本来の関心である「反緊縮」の文脈を前面に出してほしいと言っているだけである。
 
 これまでも、増税を政治の争点にすべきではなく、需要創出に関心を持つ人たち(社会保障論者を含む)が金融、公債、税などの手段を超えて政治的に連携すべきと主張してきたのだが、ほとんど理解・共感されたことはない。また泥沼にはまって無駄な時間を費やしていくいくだけなので、もうこれ以上は禁欲してこの話題は二度と書かないことにしたい*2


(財政民主主義に関するメモ)

 すいません禁欲できませんでした。これはメモということで言い訳。

 財政民主主義的な観点で言うと、国民全員が等しく負担と分配の関係に参加する「普遍的」なものと、負担する層と受給される層がそれぞれ相対的に限定されるべきという、「残余的(選別的)」なものの対立となる。そして「普遍的」なものと「残余的」なものについても、再分配の規模の大小で、「大きな政府」「小さな政府」に分けることができる*3。消費税が「普遍的」という違和感がもたれるかもしれないが、国民全員が均等に税負担に参加しているという根拠付けに親和的な税制であるということを意味している。


A 普遍的・大きな政府・・・消費税による社会保障制度の機能強化
B 残余的・大きな政府・・・所得税累進強化を通じて低所得者に分配
C 残余的・小さな政府・・・税ではなく市場や非政府組織による公共財の配分
D 普遍的・小さな政府・・・消費税による財政再建や企業負担の軽減


 補足しておくと、「残余的・大きな政府」は中間層以上に対する福祉給付が少なくなる体制であり、「残余的・小さな政府」は貧困層や障害者などに対しては政府の再分配を充実させる(ことを論理的に否定しない)体制である。この四つの対立軸をめぐって3つぐらいの政治勢力が収斂していくことになれば、財政民主主義が機能していると言うことができる。日本でこうした対立軸に沿った政局が形成されないのは、増税策の是非が税負担と分配とのあるべき関係がどうあるべきかという問題ではなく、(1)社会保障の恒久的財源の根本的な不足、(2)慢性的なデフレ不況、(3)「税金の無駄使い」に対する行政不信といった、「翼賛会的」*4な問題意識を背景に展開され、必然的に反対派の立場を最初から議論以前の「あり得ない」ものとする主張が優勢になってしまっているためである。

*1:もっとも反増税論者が、究極的には財務省とおなじ緊縮財政派であるというなら別に矛盾はない。

*2:と宣言しておかないと、また追記を重ねる悪癖に陥るので。

*3:これは便宜的なもので、個人的に「大きな政府」を掲げる場合はAの立場のみをさしている。

*4:(追記)増税策に対して反増税派から「翼賛会的」という批判があったが、事実として「翼賛会的」な状況があったとは思われない。こうした批判が意味しているのは、増税派・反増税派双方が、相手側の主張がそれなりの理由や正当性を根拠にしているという可能性を全く勘案していないため、「翼賛会的」という批判でしか応酬できないという事実である。「野田首相財務省の操り人形」など、相手を無知や利権で批判するような人格攻撃が吹き荒れたのは、そもそも増税の是非という争点自体がそうした人格攻撃を必然的に招くのである。当然ながら、こうした批判から交渉を通じた妥協や調整といった余地が生まれるはずがないので、優勢に立った側が相手側の主張を全否定して「数の論理」で押し切ってしまうことになる。これは押し切られた側から見れば確かに「翼賛会的」であるということになるが、逆に一度自分が優勢に立ったならば今度は相手側から「翼賛会的」と批判されることになることは免れない。こういう「翼賛会的」な問題を争点とした政局におかれた政治家は必然的に、メディア上ではポピュリスティックな物言いを繰り返して世論感情に訴えつつ、国会では「数」を確保するための、なりふり構わない醜い政治手段が横行することになる。今回自民・公明が「一体改革」法案に賛成したのは、増税という自らも掲げている「汚れ仕事」を民主党に被せ、しかも小沢派と分裂させて勢力を弱体化させ、次の総選挙で勝たせてもらうという、見え透いた政局目的以外の理由は何もない。なお社会保障論者があらゆる増税策に好意的になるのは、反増税派の経済学者にとっては苦々しいことであろうが、これはほとんどデフォルトだと理解してもらうしかないだろう。「ペイアズユーゴー」とか、そういう小難しい話では決してなく、日本における税負担が低いことで現役世代を中心とした社会保障(特に教育と雇用・労働関連)が切り崩されていることは、現実の政治過程で厳然と起こっていることである。