税負担の公平性について

 税に関する議論を眺めていていつも思うのは、どの論者も税の問題にとって根幹であるはずの負担と分配の「公平性」の問題に、あまりに無関心・無頓着であることである*1。というより、論者がそれぞれ自明としている「公平性」に無自覚に寄りかかっているため、議論が常に一方通行になっている印象がある。一方通行の議論を許容してしまうと、現状において権力をもつ多数派の意見が自動的に勝利し、権力をもたない少数派の意見が論争以前に敗北しまうことになってしまう。税負担の「公平性」そのものに関する議論がもっと深められなければならない。

 何が「公平」な負担であるかというのは極めて難しく、その国の政治文化によって異なるし、その人の価値観によっても大きな違いがある。たとえば、消費税と累進所得税とのいずれが公平であるのかは、容易に決着のつかない問題である。テレビを見ると、増税の手段として消費税が「公平」であることはほとんど自明の前提で議論が進んでいるが*2、逆にネット論壇(とくにはてな周辺)では所得税累進強化論への支持が強く、消費税の逆進性に対する批判的な意見が多い。消費税が「逆進的=不公平」と考えている人もいるが、所得の多寡に関わらず少しずつでも税負担に応じるのが「公平」であるという論理は、それ自体は一概に間違っているとは言えない。特に、社会保障をより普遍的な形で(一部の弱者限定ではなく全国民的に平等に)行うべきだとすれば、そうである。

 私自身は、累進所得税よりは消費税のほうがより公平であり、税負担は少々逆進的でも普遍性が高いほうが、経済弱者への積極的な再分配を可能にすると考えている。というのは、貧困者や低所得者も税を均等に負担しているという事実が、彼らの社会的な権利に対する政治的な要求を正当化する根拠になり得るからである。つまり、もし「代表なくして課税なし」が民主主義の基本原理の一つであるとすると、逆進的な課税は経済弱者に対する政治的代表権の根拠を与えるものとなり、結果としてより高い再分配政策を可能にすると理解できる*3。逆に、累進所得税はそれが実現できたとしても、かえって富裕層の「こんなに高い税金を負担しているのに」というルサンチマンに説得力をもたせ、税収増大のために富裕層の経済活動を優遇せざるを得ないという構造を強化するだけで、結果として低所得者への再分配政策をより困難にする危険性がある。

 ただし、消費税のような均等な税負担こそが公平であるという論理は、税が政府の社会サービスの対価であり、かつ政治的・社会的な権利の根拠にもなるという理解が(頭だけではなく感覚として)国民の間に共有されていて、はじめて通用するものである。いまの日本では、そうした理解が共有されているとは言えない。たとえば、野田政権以降頻繁に語られている、「増税する前に議員や官僚が身を切るべき」という主張には、税負担とは政治指導層が限界ぎりぎりまで汗をかき血を流しきった段階で、「そこまで頑張っているならこちらもガマンしなきゃ」と国民の目に映るようになって、はじめて要求できるものであるという理解がある。つまり、税負担は国民の社会的な権利の根拠や対価としてではなく、政治家・官僚の「苦労」や「頑張り」に応じたものというわけである。

 今の消費税増税反増税の世論は拮抗しているが、実際のところ両者は完全に地続きで、ただ政治家や官僚がもっと身を切れると見るのか、あるいはさすがにもう限界だろうと考えるのかという、いわば程度問題に過ぎない。そこでは、税負担というのが、政治家や官僚がギリギリまで身を削った後にはじめて国民に課せられるもの、という理解は両者の間で完全に共有されている。

 ゆえに、もし税に関するこうした政治状況や世論感情の存在を前提にすると、均等な税負担こそが公平という消費税増税論者の論理には、根本的な問題を抱えていると言わざるを得ない。というのは、今の日本において増税が可能な政治的条件というのは、国民が何も要求・期待できないほど政府が追い込まれた状態を前提としたものであり、税負担が増えたところで教育・福祉の現場の財源不足が若干緩和される程度で、国民が政府に対して何か新たな社会サービスを要求できるようには、まずならないからである。政治家・官僚の「苦労」や「頑張り」に応じたものとして税負担があるという論理においては、増税はその「苦労」や「頑張り」を共有するという観点から受容されるものである以上、税負担に応じた分配と社会サービスの要求などは、下手をすると「わがまま」「ぜいたく」と非難されかねない。結果として、消費税増税は単に低所得層に対する逆進的な負担でしかなくなってしまう。

 このように、消費税は逆進的だから不公平という論理は、分配の側面を意図的に無視しているという意味で正しくない。ただ、以上のような日本の政治環境や世論を前提にすれば「分配なき負担」になることは確実である以上、消費税の逆進性に対する警戒感それ自体は十分に理解できるものである。自分自身、消費税増税論者の杓子定規な「正論」に不快感を覚えることが少なからずある(これは反増税論者の経済学的な「正論」も同様である)。

 自分が最悪だと考えるのは、「消費税こそが公平」と言いながら、同時に「まず議員や官僚が身を切る姿勢を」と主張している政治家や評論家たちである。つまりこの論理だと、低所得者は逆進的な税負担に応じなければならないと同時に、彼らが分配を要求しようにも、「議員や官僚も限界まで頑張っているのだからわがままは言えない」という空気に圧殺されることになるからである。

 しかも、政治番組に出てくるどのコメンテーターも、財政悪化の責任を政治家や官僚の責任として「まず自ら身を切るべき」と批判しつつ、そのための最終的な負担は消費税という形で国民が均等に背負うべきだと言っているが、これでは世論が「どうして永田町の政治家や霞が関の役人の尻拭いを俺たちが」という不満や不信感を募らせるのは当然であり、増税の政治的な困難をいたずらに強めているだけである。本当に消費税増税が公平で必要であると考えるなら、われわれの社会保障制度を維持・強化していくためという至極単純なことを言い続ければいいのに、政治家や官僚の責任を指弾して「まず身を切る姿勢を」などと言ってしまうから、国民世論のあいだに消費税増税に対する不公平感が蓄積されてしまうわけである(もちろん政治評論家はそれによって得をする人たちではある)。

 もし増税論者が、「議員や官僚が身を削る」「無駄遣いの削減」で国民に増税に対する理解を得るつもりなら、それは明らかに泥沼の道としか言いようがない。大きな組織で無駄遣いがないわけはない。特に官公庁のように業務の性質上目に見える「成果」をアピールしにくい組織は、その気になればすべてを「無駄遣い」視することができる*4。そして、「無駄削減を徹底しろ」という声のもとに予算を精査すると、「ほらやっぱりこんなに無駄が」ということになり、ますます世論の反感が強まって増税は困難になっていく。一度は実現できたとしても、次がまた大変である。

 まとめると、私は普遍的な社会保障の負担の在り方として消費税が最も公平性が確保しやすい税制だと考えるが、税負担は政治家や官僚が限界まで身を切った上で行うべき、という現行の世論を前提にするのなら、現実的にも世論感情の上でも消費税では人々の公平性を確保することはできない。では所得税累進強化のほうがよいのかと言うと、もちろん賛成ではあるのだが、これは1980年代に先進諸国で公平性の確保に一度「失敗」している税制であり、またネット上の匿名ブログなどを除けば、今の日本で所得税累進強化を前面に掲げている経済・財政の専門家はほとんど見当たらないし、また繰り返すように政治的なリスクがきわめて高い。はやり世論を変えていく政治家と専門家の役割に期待するしかないと思う。

(追記)

 自分がこういうエントリを書いたのも、国民のなかにある税負担の不公平感を無視した、財政学的な「正論」が多いことに対する違和感があっためである。社会保障を維持・強化するために増税が不可避であること、税負担なき充実した社会保障があり得ないことなどは、あらためて言われるまでもなく、国民の大多数も十二分にわかっている。よくわかった上で国民は「やはり納得できない」と応じているのであって、税に関して残る問題は既に負担の公平性をめぐる感情の問題だけなのである。

 ゆえに、増税を訴える側がいま取り組むべきは、恒久的な社会保障財源のための増税が不公平であると感じられてしまう現実への対処にある。この不公平感の問題を全く考慮していないため、増税に批判的な世論に直面するたびに、政治家は「まず自ら身を切る姿勢を示すことで国民にご理解いただく」などと、不公平感の根本的な解消には何もつながらない(むしろ不公平感の再生産にしかならない)、その場しのぎの対応を行ってしまうわけである。言うまでもなく、政治家が公に繰り返し語っていることがその場しのぎで済むことは絶対にない。

 では不公平感をどう解消するのかについては、ここまで書いておいて無責任なようだが、よくわからないというのが正直なところである。きれいごとに聞こえるかもしれないが、税負担は第一義的には自分の生存・生活のためであるということを繰り返し訴えていくこと、そして政府がそのことを政策で「実演」して見せること、それ以外にないだろうと考える。

*1:断わっておくと、ここでは経済学的な観点を敢えて無視して議論を進めている。無視できるものではないと言われそうだが、税は経済学的な問題というより、第一義的には政治社会学的な問題であることは強調しておきたい。

*2:反増税論者の多くも財務省批判や「タイミング」の問題が中心で、よく聞くと最終的には消費税が公平であると考えている場合が多い。

*3:ただし社会哲学的な観点からは、税負担は少々逆進的なくらいのほうが公平という論理は、最終的には必ず行き詰まる。というのは、平等な税負担が政治的・社会的な権利の根拠になってしまうと、税を負担すらできない無能力者の生存権が否定されかねないからである。ひきこもりの人や重度の障害者など、消費する能力すら奪われている無力者も富裕層や健常者と平等な社会的権利を有しているとすれば、平等な税負担を公平性の根拠にすることはできない。消費税が公平だという人は、少なくともこの問題をどこかで頭に入れておく必要があるだろう。

*4:自分も「無駄遣い」に対する憤りが全くないわけではないが、失業、貧困、過労、自殺などの問題に関する報道を押しのけてまで、連日のようにテレビで目にしなければいけないような、緊急を要する深刻な問題とは全く思えないというだけである。