体育会系的な経済論

最初のテーマは最近流行りの経済論議

ゴドウィンの法則の拡張提案


ゴドウィンの法則――ネットでの議論がある程度長引くと、相手をヒトラーに喩える輩が必ず出てくる――は、もし実際に相手をナチに喩えることに走ったら、議論に負けたことになり、もはやまともに相手にされなくことを意味する、と解釈されることが多い。私はその解釈に全面的に同意する。(それは共和党の重要人物の意見をもはや真剣に受け止めることを意味するのか? 答えはイエスだ)



しかし、倫理的にナチの喩えと同等の喩えは数多く存在し、それらはやはり同じ扱いを受けるべきである。私がここで提案したいのは、


1. ある分野での一層の政府の行動を求める声――雇用創出、医療改革、その他諸々――に対し、ソ連の例を引き合いに出して反応する人


 もしくは


2. 適度なインフレないしドル安が受け入れ可能という提案に対し、ジンバブエの例を引き合いに出して反応する人


 もしくは


3. 予測された債務水準が、高くはあっても、先進国が過去に成功裡に対処できた範囲に収まっていることを示すと、アルゼンチンの例を引き合いに出して反応する人


は、迅速に外の暗黒*1につまみ出すことである。



そうすべきなのだ。


http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20091118/soseki_and_debate


 クルーグマンについては何も知らないけど、これは非常に面白いと思った。

 自分は「量的金融緩和」という言葉だけで頭がパニックになってしまうくらいの経済音痴なのだが、金融危機以降の経済論議を外野から眺めていると、どうも以下の対立が漫然とあることくらいは理解できた。


【A】今の日本の根本問題は、企業と労働者に競争力が足りないことにある。競争力をつけるためには、労働市場を中心とした徹底した規制緩和が必要。生産性の高い労働者を生み出し、企業が魅力ある製品・サービスを提供することによってこそ、経済成長は可能になる。


【B】今の日本の問題は競争力というよりも、供給過剰状態とそれに起因するデフレ経済にある。だから国民の間に需要を喚起することが経済成長にとって最優先であり、具体的には人為的にインフレを起こすとともに再分配政策を実施することが必要である。


 付け加えると、【A】も脱デフレ政策を否定しているわけではなく、デフレを解消するためにこそ企業と労働者の生産性の向上が必要である(この理屈がいまいちわからないのだが)ということであって、【B】も生産性向上を否定しているわけではなく、あくまで現在の日本の社会経済的な状況ではインフレと分配が必要だと言っているに過ぎない。


 どっちが正しいのか、を判断する知識は今の私にはない(というか、「正しい経済理解」を断言的に語る傾向のある経済論壇人たちが、私はまったく好きになれない)。ただ、「社会主義者」とか「既得権益者」などのレッテルを濫用したり、政治家や官僚の陰謀論を繰り出したりして批判する人たちには、明らかに【A】に多いという印象がある。昨今の貧困や格差の問題を、そもそも「問題」とすら見なしていないような態度の人にも【A】が多い。

 要は【A】の人は、既得権益に安住せず、国からの分配に期待せず、厳しい競争社会の中で頑張って耐え続けられるような企業や労働者が国民のなかの圧倒的なマジョリティにならなければ、「経済成長」など実現するわけがない、と信じているのである。「社会主義者」とか「既得権益者」というレッテルは、競争社会の現実から目を背ける卑劣な逃亡者ということを意味している。こうした、いわば「体育会系的経済論」とでも言うべき議論は、経済理解として正しいとか間違っているとか以前に、その社会観や人間観においてまったく賛同できないものを感じる。逆に【B】の立場の人には、そうした体育会系的なものをあまり感じない。


 振り返ってみると、かつては防衛の重要性や愛国心の必要性を少しでも口にしただけで「ファシズム」「軍国主義」呼ばわりのレッテルを濫用したのは、「社会主義」にシンパサイズする(現実の体制であれ理念であれ)陣営の側であった。いま、そうした論法が「社会主義」を批判する側によって用いられているというのは、何とも皮肉なものである。