規制緩和論者の日本社会認識

いまの日本とはまさに、「売れもしないものをたくさん作った」現実を前にして、それを「需要不足だ」と考え、政府が税金を投入して無理やり買い支えているような状態だ。企業のリストラを規制して、補助金まで投入している。「現実が変わった」と捉えることができず、一時的な「不況」だと思っているのだ。

http://mojix.org/2009/12/17/takenaka_kan

 最右翼の規制緩和論者の社会認識が非常にコンパクトに説明されている文章として、なるほどと思った。「売れもしないものをたくさん作」るような、「社会主義的」な国であると今の日本を捉えているわけである。

 しかし、2000年代の「構造改革」の帰結は、この認識が不適切だったということではないのだろうか。「売れもしないもの」というのは具体的に何を指しているのか、さっぱりわからないが・・・。デフレの最前線は小売業だが、コンビニやスーパーが「売れもしないものをたくさん作っ」ているようには思えない。むしろ、それになりに質の高いサービスと商品を提供しているが、不適切な規制緩和による過当競争で売り上げが伸びない、と考えたほうが個人的には納得できる。

 自分が、上記のような日本における規制緩和論者の話を全く信用していないのは、公共事業政治や日本型経営、官僚主導型の経済政策が、日本経済の根源的な問題であることを強調していることにある。しかしこれらは、新書や新聞レベルの報道でも、崩壊過程にあることは誰の目にも明らかなはずであり、崩壊しつつあるものが現在の問題の原因だというのは、そもそも議論の立て方として根本的に間違っているだろう。たとえば、雇用の流動化が進まないのが問題の原因だというのだが、すでに相当程度流動化が進んでいる現実があり、その最前線においていかに悲惨な事態が起こっているのかを、全く見ようともしないのである。


 しかし、それ以上にがっかりしたのが、この記事に対するコメントである。 

 http://b.hatena.ne.jp/entry/mojix.org/2009/12/17/takenaka_kan

 いまだに竹中平蔵氏に与する人がいるとは、少々驚きである。竹中氏が批判されるべきなのは、別に格差や貧困を作った張本人だからではない(これは断じてそうではない)。それは、自らが経済政策において大きな権力を揮っていた当事者であるにも関わらず、経済政策にも及ばなかったところ、負の部分があったことについて、まったく認めようともしないからである。竹中氏に対する様々な反感も、経済政策の責任者であったことを脇において評論家然と語るその「無神経さ」にある。

 将来を完全に予測したり社会を完全に把握したりすることができない以上は、学問や政策というものは、どこかで必ず失敗する。それは、仕方がないことである。それを素直に認めて、その経験を次のステップに生かせるかどうかに、その人の学者や政治家としての誠実性がかかっている。

 その意味で竹中氏が信用できないのは、彼の議論に失敗がないからである。というか、失敗がすべて「既得権者」などの外部者のせいになっている。「既得権者」の抵抗を織り込んだ形で経済政策を立てなかったのは失敗だった、などと反省することは絶対にない。こういう不誠実な議論を平然と展開してきた人物に、いまさら説得力を感じるというのは、健忘症もいいところだろう。