日本の新自由主義は集団主義的

 実際、日本では政府による財政支出は「バラマキ」という言葉で激しい批判の対象になります。特定の業界や地方が潤う公共事業だけではなく、麻生政権の定額給付金や、鳩山政権の子ども手当など、国民に幅広く支給される財政支出ですら、激しく批判されました。この現象は一見「小さな政府」を重視する保守的な(あるいは「新自由主義」的な)動きのように思えますが、このように考えると「内集団ひいき」的な考え方に基づく動き(端的に言えば「よそ者に俺の税金をばらまくな!」)とみなせます。

 また、「事業仕分け」のような「ムダを省く」政策に対する国民の支持が高いのも、「内集団ひいき」的な考え方の持ち主にとっては、「よそ者に俺の税金を回さない」政策と考えられているからでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20100522/1274544444

 私が「新自由主義」と呼ばれるものが嫌いなのは、その社会観や経済理論そのものではない。むしろ、規制緩和や市場競争の強化を呼号する人たちのなかに、例外なく官僚・公務員から高齢正社員にいたるまでの「既得権益者」へのルサンチマンが蔓延している(少なくともそれを利用して自説を正当化する)ことにある。そこには例外がなくと言ってよいほど、「あいつらだけずるい」という集団主義的な感情が語られている。

 高橋洋一氏が典型的だが、経済に関する説明ではそれなりに説得的なのに、肝心なところで中二病としか言いようのない官僚への既得権批判や陰謀論になだれこんでしまう。社会保障の専門家である鈴木亘氏もそうだが、既得権批判を持ち込まなくても十分説得的な議論ができるはずなのに、もっとも肝心要の部分でそういう批判を繰り出して全ての議論を台無しにしまう。

 既得権批判や陰謀論は、まともな学者と思われたいのであれば徹底して禁欲すべきなのだが、何でそうなってしまうのかと言えば、それが日本の読者に「受ける」ことを実感としてよく理解しているからだろう。節度のある学者であれば、そこにむしろ危険性を感じて一歩引くべきなのだが、一部の人は積極的に乗っかって自説の正当化に利用してしまうわけである。

 日本の「新自由主義者」が嫌いなのは、そこに日本人の中にあるドロドロとしたルサンチマンがこびりついており、当人もそれを積極的に利用しようとしている点にある。この意味で、フリードマンなど筋金入りの「新自由主義者」が必ずしも嫌いではないのは、そういうルサンチマンがほとんどない点にあると言える。


(追記)

 断っておくと、これはもちろん単調な「新自由主義」批判、大企業批判を繰り返す左翼にも同様なことは当てはまる。一頃流行った「帝国」論が典型的だが、真正面からマルクス主義を掲げる人は皆無になったものの、どこかに全世界の人民を「搾取」しているモンスターがいるかのような想定で議論を構築している姿勢は相変わらずである。ただ幸か不幸か、こういう議論はもはや人文系の知識人のなかの「内輪ネタ」と化していて、日本社会の中のルサンチマンとまったく接点を持つことができずにいるのではあるのだが。

(さらに追記)
 ルサンチマンは、それを語っている人が真剣であれば決して否定しない。その人が経験してきた、長い人生の中で積み重なった屈辱や怨念のなかから肺腑を絞り出すように語られたルサンチマンはきわめて迫力があり、差別や排除の社会問題化は実際こうした語りなしにはありえなかっただろう。しかし、ここで批判している人たちの語る既得権批判というのは、いかにも通俗的で薄っぺらであり、「官僚利権」の報道に素朴に怒るおじさんおばさんたちとほとんど同じレベルの怒りでしかなく、そこには真剣さは微塵も感じられない。だから既得権批判を繰り出す日本の「新自由主義者」たちは、「あいつらだけずるい」という、どこまで言っても日本的集団主義の歪んだ形*1でしかないと思う。

*1:それを自説の正当化に巧みに利用しているのか、自分で反省できないだけなのかはともかく