もっと割り切った態度がとれないものか

 よく左派系の社会学者や政治学者は、市場の役割を重視する経済学者を「市場がすべてを解決してくれると信じている」「市場原理主義」と批判するが、言うまでもなくこれは正当な批判ではない。経済学者は市場が万能薬だと言っているのではなく、財の分配を市場の価格決定に委ねたほうがより「公正性」や「透明性」が高く、人々の納得感や正当性を得やすいと言っているに過ぎない。そこから、税収増や財政の効率化などの話が出てくるのだが、自分の理解では、それはあくまで枝葉の話でしかない*1

 問題は、これが往々にして政府に対する不信とセットになっていることだろう。つまり、政府による分配は恣意的な利益誘導などの「不正」を招きやすく、人々の不信感を醸成する原因になるから、なるべく政府の役割は小さいに越したことはないというわけである。だから、すべてではないが経済学系の人の多くは、多かれ少なかれ官僚・公務員の無能力や不公正さを言挙げする傾向がある。

 例えば、小野善康氏の「増税で需要増」政策に対して、「どうして政府が民間よりも賢くお金を遣えるのか」という批判があったが*2。それ自体はその通りだとしても、小野氏もあちこちで反論しているように賢いとか愚かとかという問題ではない*3。政府にしか担えない問題については、政府の能力を「信頼するしかない」のであり*4、もし「信頼できない」というのであれば、政府が関与すべき所得再分配や社会政策そのものが不可能ということになる。政府の役割の大幅な削減を掲げつつ、同時に所得再分配や社会政策の充実を主張する人が少なからずいるが、それは紙の上の理屈としてはあり得ても、現実問題としては難しい。

 だから議論すべきは、政府が賢いかどうかとか、信頼できるかどうかとかではなく、「政府が関与すべき」/「すべきでない」という境界線を、どこに設定するかという問題でしかない。この意味で、「どうして政府が民間よりも賢くお金を遣えるのか」という批判は、議論の矮小化としか言いようがないし、また世間の政府不信に「ただ乗り」して自説の正当化を図ろうとしている点でも、およそ公平な批判ではない。

 これは、何かというと市場原理のなかに暴力や排除のメカニズムを嗅ぎつけ、「コミュニティ」「共生」によって「市場原理主義」を牽制すべきだなどと主張する左派にも同じことが当てはまる。政府も市場も、「豊かな社会」を再建するために使えるものは使えばいい、というもっと割り切った態度がとれないものだろうか*5

*1:もちろん世間に向けて語る際には根幹であるかのように説明することが多い。

*2:民間を「国民」と言い換えている人がいて、これにはさすがに腹が立ったが、政府は民主的な手続きを通じてコントロール可能であるという意味では、やはり「国民」的なものである。それに「かんぽの宿」の問題で明らかになったように、民営化すればどんな人事や経営を行おうと「経営者の判断に外部は口出しすべきではない」という理屈で、「国民」の手からは離れるわけである。だから民営化すべきではないということではないが、問題は民営化論がそういう事実をひた隠しにし、あたかも民営化によって郵便事業を「郵政族などの既得権益者」から「国民の手に取り戻す」かのような嘘八百を並べ立てていたことにある。

*3:個人的に、小野氏に対する最も説得的な批判は、それが過去に「治療実績」がない新奇な政策であり、可能な限り「治療実績」のある政策を採用すべきだというものである。

*4:もし二者択一で「今の政府を信頼できますか」と問われれば、自分も「まあ、あんまり・・」と答えるしかないだろう。

*5:小野氏に共感するところがあるとしたら、こういう割り切った態度だろう。例えば竹中平蔵氏などはスマイルズの『自助論』などをよく引き合いに出すのだが、個人的には、経済政策を倫理的なもので正当化すべきではないと思う。