市場について

 自分は市場という制度が基本的に好きである。特に、「社会主義」的なものが知的世界に色濃く残っていた90年代半ばくらいまでは、(無知ということもあって)素朴に「市場原理主義」的な考え方をしていたところがあったように思う。

 その考えが変わったのは、「市場」を掲げる政治家やエコノミストが、厳しい競争が人間を鍛えるとか、政府の利権や既得権が解体されるとか、自助・自立の精神が生まれるとか、そういう文脈で市場の役割を語るようになった(正確に言うとそういう語り口に気がつきはじめた)ためである。頑張らなくても、昔の労力の半分以下でも、十分に豊かな生活ができるように社会を効率化して富を生み出していく、というのが市場原理の良さのはずである。それなのに、彼らはもっと必死になって苦労して働くなかで経済が発展するというのが市場資本主義であるという言い方をする。そして、「社会主義」の失敗はまさに「人間を甘やかした」ことにあるのだという。しかし、そうした「努力全体主義」こそが、自分が過去の「社会主義」に感じた嫌悪感とほとんど同じものなのである。

 市場というのは、自分にとっては「豊かさ」「便利さ」「華やかさ」をもたらすエンジンのようなもので、それ以上のものではない。一言でいえば、「パンとサーカス」である。非常に素朴で子供じみた市場観に思われるかもしれないが、自分は「パンとサーカス」という以上に、市場という制度の良さというものを説明できない。だから、かつては「パンとサーカスに騙されるな」という言い方をする左翼が大嫌いだったが、「パンとサーカスはリスクを恐れない厳しい競争によってこそ生まれる」と説教する、昨今の市場規制緩和論者も同じ意味で嫌いなのである。

 さらに、よく市場原理は昔から「自由」との関連で語られるが、説明するまでもなく、ファシズムから現在の中国やシンガポールに至るまで、市場経済の原理を活用しながら独裁体制を敷くなどということは普通にありうるし、市場経済が発展すれば自動的に政治的な自由も高まるかのようなよく言われる理解も、現在の政治学社会学ではおそらく、実証的にも論理的にも支持されないだろう。「自由」はあくまで政治哲学の水準で考えるべき問題であって、市場に対して「パンとサーカス」以上の何かを期待するべきではないと思う。

 最近の自分が福祉国家論に接近しているのは、ナショナル・ミニマムの分野は、その基本は政府が引き受ける「大きな政府」のほうが、市場が「パンとサーカス」の役割に徹することでき、市場の持っている良さを最大限生かせるということが大きい。官僚の既得権や公務員の給与水準がけしからんからといって、教育・福祉のような問題を市場に委ねようとする人たちは、自分からすると本当の意味で市場が好きではないように感じる。もっとも、福祉国家論者には、「循環型社会」と「コミュニティ」で市場の暴力を牽制すべきなどという人が多く、それも頭の痛いところなのだけれども。