わかりやすい説明

ハッキリ云ってしまえば、「わかりやすさ」を求める「素人」には何かを理解する事など不可能です。

私の研究であれば、優秀とは言い難いですが研究者として20年近く、人生の大半を注ぎ込んで学習・研究・試行錯誤し、ようやく見出した結果を、「素人」がちょっとやそっとで理解しようとしたって出来るものではありません。そんな事が出来るなら、こちらも苦労はしてません。

もちろん、発見の困難さと理解は必ずしも一致する訳ではないのは、ゼロという概念が小学生でも理解出来るのに対して、発見に夥しい歳月が費やされた事を考えれば、確かです。

ですが、やはり先達が確立してきた道程をまったく辿らずして、「わかりやすさ」に飛びついても、それは理解とは云えないのです。

もちろん、我々は「わかりやすい」説明に努めていくつもりです。それは自らの為でもあるから。

でも、知ろうとする側が安易に「わかりやすい」に飛びつくべきではありません。まして、わかりやすい説明でわかった気になってはいけない。そこで終わりにするのではなく、その先に進み、自分が「何が分からないのか」に気づかなくてはいけません。

わかりやすい説明で、そうだったのか、と想うのは終点ではなく、始まりです。わかりやすさ、に甘えるのにはご注意を。

http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20110225/1298641786

 趣旨は反対ではないというか基本的には共感できるが、もし日本国民が安易に「わかりやすい」話に飛びついて専門的話題に対する一知半解の議論を横行させ、それが今の政治的な混乱の背景となっていると批判的に考えているとしたら、それは必ずしも正しくないと思う。

 自分の印象では、日本の有権者は「わかりやすさ」に安住しているようには見えない。テレビやネットなどを見ていても、国債とか消費税とか年金とか、専門家にとっても難しい専門的な話を、非常に真面目に考えようとする意欲的な姿勢が強いように思われる。だから、むしろ逆に、この生真面目さこそが、現在の日本の政治的混乱の大きな背景にあると考えたほうが自然ではないだろうか。

 例えば、財政政策で言えば、まず「緊縮財政」か「需要創出」かという、「わかりやすい」話からはじめるべきところを、消費税の逆進性がどうのこうのとか、そういう難しい話にいきなり入ってしまう傾向がある。そんな専門家ですら容易に決着のつかない問題で国民に頭を使わせるよりも、再分配において「大きな政府」か「小さな政府」か、政治哲学において「リベラル」か「保守」かといったぐらいの、中学生にでも了解可能な、単純で「わかりやすい」対立軸のほうが、政治的にははるかに健全で生産的である。

 ところが日本では、早く連立したらどうかと言いたくなる菅首相と谷垣総裁との党首討論に象徴されるように、そういう政治的対立軸があまりに「わかりにくい」状況になっている一方で、「池上彰」的な、専門的な話題に対する「わかりやすい」説明に対する飢餓感が非常に強くなっている。というか、政治的な対立軸があまりに「わかりにくい」ものになっているがために、専門的な問題の是非が政治的な評価・判断として前景化し、そのことが「池上彰」的なものへの必要以上の飢餓感を生んでいる、ということなのだろうと思う。

 もちろん、有権者が「わかりやすい」説明で税や年金について理解を深めること自体は決して悪いことではない。「わかりやすい説明でわかった気」になることも、一概に悪いことだとは思えない。ある知識を通じて人々が社会的な「安心」や「信頼」を獲得するというのは、近代科学が伝統的宗教にかわって引き継いだ重要な機能の一つである。それが問題だというなら、その「わかりやすい説明」に対して、専門家が丹念に実証的・論理的な批判を加えていけばいいだけであろう。

 ただ、今の日本の政治経済に関する議論をみていると、やはり悪い意味での「わかりやすさ」が横行しているとは感じる。つまり、「わかりやすい」説明が複雑な現実をある特定の観点から単純化したものという事実がしばしば忘れ去られて、「こんなわかりやすい話も理解しようとしない民主党議員や官僚は馬鹿なのか既得権を守りたいだけなのか」という、現実の複雑さを乱暴に無視した非生産的な批判ばかりが目立っている。そこでは、反対者が自分の考える「わかりやすい」説明からこぼれ落ちた別の現実を見ているがゆえに、自分とは意見が異なるのだ、というごく当たり前の反省的思考は全く生まれない。