「事業仕分け」とは何だったのだろうか

事業仕分け:1.95兆円捻出し終了 「廃止」71「見送り」19「基金返納」30超 
毎日新聞 2009年11月28日 東京朝刊


政府の行政刷新会議(議長・鳩山由紀夫首相)は27日、予算の無駄を洗い出す「事業仕分け」最終日の作業を行い、全9日間の日程を終えた。449事業を仕分けし、「廃止」、「予算計上見送り」、「予算縮減」を合わせた予算の削減額は約7500億円となった。公益法人基金の国庫返納などで捻出(ねんしゅつ)できる財源を加えると総額約1兆9500億円に達した。作業グループは30日、結果を最終報告する。


(中略) 


 事業仕分けは一般公開で行われたことで関心を呼んだ。9日間の傍聴者数は2万人弱となり、インターネット中継の1日の視聴者数は延べ34万人に達した。

 鳩山首相は27日夕、記者団に対し「国民に予算が見える形になり、非常に頑張った結果になった。この国の貴重な財産を生かし切るような予算を作り上げたい」と述べた。【坂井隆之、寺田剛】


http://mainichi.jp/select/seiji/news/20091128ddm001010004000c.html

 「事業仕分け」がついに終了したが、最後までどうしてこんなことを一生懸命やっているのか、何の必要があるのかが、さっぱり理解できないまま終わってしまった。その結果が1兆9500億円という、95兆円の予算全体から見ればあまりに少ない数字であるのだから、なおさら疑念は深まるばかりである。これは消費税の1%分にしかすぎず、しかも今回の不況による税収減がその4倍の8兆円程度であるとすると、費やした労力を考えれば事業仕分けそのものが明らかに「無駄」なものでしかなく、財源問題はやはり税制改革や経済政策で対応するしかないということは、明らかであったように思われる。

 「予算編成のプロセスを国民に公開したことは画期的だった」という評価もある。しかし、どうして公開が重要かといえば、事業仕分けの対象者に異論や反論の余地を十二分に与え、交渉と討論によって相互の納得を深めることにあるはずである。そうした場をきわめて不十分にしか設けていない今回の「公開」は、手続き的に見てもとても民主主義的と言えるものではなく、完全に欺瞞であるとしか言いようがない。これは小泉政権時代の経済財政諮問会議が、形式的には確かに「公開」されていたが、労働団体や福祉関係者などが決定プロセスから完全に閉め出され、結果として政策が大きく偏ってしまったことを思い起こせば十分である。むしろ今回のような「公開」の仕方は、予算の削減に抵抗の姿勢をみせる人々に対して、「完全公開の下で国民も納得しているのにまだ不満を言うのか」という、異論を封殺する空気を作り出すものにしかなっていないように思われる。

 ただし、事業仕分け以前の問題として個人的に気がかりなのは、その背後にある「行政不信」や「成長不信」と言うべき世論である。「行政不信」というのは、要するに行政が税金を公正に分配するとは思えないということであり、「成長不信」とは経済成長自体がもはや困難だけではなく、株価やGDPが伸びたり科学技術が発展したりしても、別に自分たちにとって何の得があるのかわからない、ということである。つまり、税金を上げれば官僚や族議員の懐に入るだけであり、「成長」しても大企業の役員や株主が恩恵に与るだけだ、というわけである。

 このように、財源問題が税制や経済政策の問題ではなくて、第一義的に「税金の無駄遣い」の問題になってしまうのは、行政に税金を預けても経済成長しても、自分たちの生活は少しも楽にならないという(それ相応の実感的な根拠のある)根深い不信感がある。結果として世論が、少ない財源を所与として国民全体が黙って耐えていくしかないんだといったような、無意味なペミシミズム(前回の言葉を使えば「不幸の横並び」)に陥っているように思われる。そのことは、民主党政権の政策で比較的高い支持を得ているのが、「子ども手当て」のような分配政策ではなく、今回のような歳出削減政策であることにも示されている。

 行政不信はそれはそれで解決すべき問題だろうし、公共事業から「構造改革」にいたるまでの経済成長路線の不適切さが成長不信を招いたことも、確かに反省されなければならない。しかし、だからといって「財政危機だから」ということを殺し文句にし、教育や科学技術などの将来について伸びやかに議論するということ自体を封殺するような雰囲気になっているのは、さすがに健全なものとは言えないだろう。「財政危機」「財源不足」という言葉に屈服しなければならないほど、政治は無力なものでは決してないはずである。