過労死・過労自殺

働くナビ:不況の下、過労死を巡る状況はどうなっているの。


 ◇20、30代にしわ寄せ 精神障害の労災申請の6割にも
 
 ◇遺族ら、企業名の公表訴え


 過労死や過労自殺した人の家族らで作る「全国過労死を考える家族の会」(寺西笑子代表世話人)と、過労死弁護団全国連絡会議などが11月18日、恒例の「勤労感謝の日を前に過労死を考える集い」を開いた。1年間の過労死・過労自殺を巡る状況を報告し、悲劇をなくすことを目指して開かれており、今年で22回目。不況が深刻化する中、労働時間も減っているといわれるが、長時間・過重労働を巡る状況はどうなっているのか。


 「20、30代の精神障害の労災申請が6割近い。こういう社会は異常だと言わざるを得ない」。1年間の労働災害認定や裁判の動きを報告した過労死弁護団の玉木一成事務局長は、最近の特徴をこう説明した。うつ病など精神障害の労災は、08年度に927人(うち自殺148人)の申請があり、30〜39歳が303人と最も多く、20〜29歳も224人で、20〜39歳で全体の5割を大きく上回る。認定でも、20〜39歳の合計は144人(うち自殺21人)と5割を超えている。


 背景には、長時間・過重労働の常態化がある。システムエンジニアをしていた27歳の一人息子を過労自殺で亡くした神戸市の母親は、息子の働かされ方を訴えた。男性は、デジタル放送に関するプロジェクトを担当。長時間労働が常態化し、徹夜で仕上げたプログラムが朝には仕様変更でゼロからのやり直しを迫られるなど、肉体的にも精神的にも厳しい中で働いていた。


 母親は「徹夜で働き、1時間休んで出勤、そのまま夜中まで働くなど長時間労働を強いられていた。息子には74人の同期入社がいるが、うち13人がうつ病で退職か休職になっている」と話した。だが、労災は認められず、母親は裁判で闘っており、「亡くなった息子のためにも、若者が夢と希望を持って働ける社会にしていきたい」と声を詰まらせた。


 (中略)


 こうした中、家族の会などは日本労働弁護団などが提唱する「過労死等防止基本法」の制定を求めている。国や使用者、使用者団体の責任を明確にし、過労死防止の基本計画決定などを求める法律だ。また、すぐできる効果的な対策として、過労死・過労自殺を発生させた企業名の公表を厚生労働省に迫っている。


 寺西代表世話人は「アスベスト企業は公表されるのに、過労死・過労自殺を発生させた企業はなぜ公表されないのか。企業責任を問うことが労災防止につながるし、入社する企業を選ぶ重要な情報にもなる」と話す。


 過労死・過労自殺の防止は民主党マニフェスト政権公約)にも記されており、家族らは実現を求めたいと話している。【東海林智】


 過労死問題は1980年代末のバブル景気の頃から発生したものであり、その頃のほうが今よりも全然深刻ではなかったと思うのだが、メディア上の報道量は今よりもずっと多く、「働くことだけが人生じゃない」かのようなメッセージが溢れていたように記憶している。もっともその頃は労働問題ではなく、「日本人の特異な労働観」という、日本人論の一貫として語られることが多かったのではあるが。

 最近は、「働く貧困層」に関する報道は増えつつあるものの、それと不可分の問題である過労死・過労自殺については、ほとんど聞かれなくなってしまった。被害者の遺族が苦労して裁判にまで持ち込んで、企業側の敗訴が確定して、ようやく報道されるという有様である。

 報道系の番組でも、若者が必死で働くのは当たり前だといったような態度の、企業家と官僚・政治家としか付き合いのなくなった、旧世代のジャーナリストや司会者が今だに大きな顔をしている。そうした場所で民間企業の雇用のあり方を批判すると、その何倍規模で「企業も大変なんだ」「経済をわかっていない」と攻撃的に弁護するコメンテーターが何人も出てくる。

 過労死・過労自殺の問題は、この問題に取り組んでいる個別の運動家や弁護士・研究者などが、自著か非大手の出版社の雑誌、そしてインターネットなどで報道される程度のものになってしまっている。もはや民間のマスメディアには、公害問題を追及した頃のようなジャーナリズムの力は、まったく期待できなくなっている。それどころか、まさに被害者から過労死・過労自殺の責任者として名指しされているような企業の経営者の意見を、マスメディア側が「拝聴」するような類の記事や番組を目にすることも少なくない。

 一時期、共産党労働組合ぐらいしか、労働問題についてメディア上で発言力を持っていなかった時期もあり、彼らの単調で上から目線の企業批判もあって、ますます世論が労働問題から遠ざかってしまっていた。ようやく湯浅誠氏のように、現場で貧困者支援に奮闘している当事者が、それまでの運動家にありがちな闘争的スタイルを押し殺し、慎重に言葉を選びながら問題の深刻さを語るようにしてから、はじめて受け入れられるようになったのである。湯浅氏のなかにもおそらく、明々白々な暴力や差別の当事者を批判するのに、どうしてここまで苦労しなければならないのか、という思いがおそらくひそかにあるのではないかと思われる。


 最初に戻ると、「働くことだけが人生じゃない」というメッセージは、今こそ必要とされているはずである。しかし、かつてこのメッセージが「働かなくても食っていける」かのような時代を背景に使われたこともあってか、「働かなければ食えないじゃないか」と、逆に時代の空気に合わないものになってしまっている。むしろ食べていくため、家族を養うために働くことこそが尊いかのような物言いが、ますます強まっている雰囲気もある。

 しかしそれは、人々をますます過剰労働に追い込み、自分も家族もさらに不幸に陥れていくものでしかない。90年代には軽薄な面があったことは否めないとはいえ、生存と労働を切り離す可能性を追求する思想が確かにあった。そうした思想を、今一度振り返ってみることが必要ではないかと考える。