道徳保守派の役割

 しばらくの間、曽野綾子氏の記事をめぐって熱く語る人が続出していたようだ。

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20091201/1259678004

 曽野氏の元記事を読んだ感想は、「道徳観のあまりの古さに苦笑い」であり、そもそも憤りを感じようがなかった。こういう議論に共感する人が潜在的に多い、ともあまり思わない。産経や『正論』の読者層か、戦前の教育が身体にしみこんでいる世代か、あるいは対女性関係にコンプレックスやルサンチマンを抱えている男性か・・・いずれにせよ、ごくごく一部でしかないと思う。

 個人的には、曽野氏のような道徳保守派の人たちが根底では嫌いではない。彼女たちは最初から世間の共感や支持を得たいと思って物を語っていないのであり、その議論がいかに無知と偏見に基づくメチャクチャな暴論だろうと、そのなかにある反時代的な態度はやはり大事にしたいという気持ちがどこかにある。

 昔から保守系の知識人というのは、世間が激怒したり困惑したりするようなことを敢えて言う、というところに眼目がある。彼らが最も嫌うのは、ワイドショーなどにありがちな、毒にも薬にもならない誰かの優等生的なコメントに、他の出演者が納得して終わるという風景である。保守派というのは、そういう生ぬるい空気がたまらなく嫌で、なんか極端なことを言って「空気」を破壊してみたくなるという、天邪鬼の人たちなのである。こういう知識人を馬鹿にするのは簡単だが、そういう立場を敢えて引き受けるというのは、誰にでもできることではないと考えている。

 「ネット右翼」は曽野氏のような保守派とは全く異なる。「ネット右翼」はその場その場の共感を必死で求めているが、元来保守派というものはそんなものは求めない。保守派が念頭に置いているのは、逆説的かもしれないが(というか保守派のなかにある根源的な矛盾なのだが)、インターネットどころか『正論』すら読まないであろう物言わぬ「庶民」なのである。


 もちろん、これは最大限好意的に保守派を解釈したものであって、現実の日本における保守派の言論の質が、曽野氏を含めて、あまりにひどくなっていることは、さすがに否定しようがない。実際、いま「保守派」に分類されるような知識人で、読むに耐え得るようなことを言っているのは、およそ1割もいないだろう。

 むしろ左派知識人のほうが、かつての保守派の問題提起を柔軟に取り込んでいる印象がある*1。その意味で、保守知識人がどんどん極端な方向に流れてしまっているのは、左派のほうが緩やかに「保守化」してきたせいかもしれない。

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 指摘し忘れたが、曽野氏の元発言で重要なのは、「平和で緊張感にかけた日本/日常的に犯罪からの防衛意識のある世界」という対比があること。この対比で、曽野氏は後者が無条件に正しいと言っているのだが、だから問題はこの価値判断が果たして適切なのかということである。もともとフェミニズムとかそういうのとは、あまり関係ない文章だという気もする。

*1:例えば『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子著など