いまさら「無駄」も必要だと言われても

つくづくいやになるのは、「無駄が多い」と大合唱してきた人たちが、科学技術関連の予算など個々の事案について報道され始めると、その舌の根も乾かぬうちに「民主党は何を考えているのか」と批判しはじめる人が多いことである。

八ツ場ダムの問題がまさに象徴的で、「ダムは無駄だ」と大合唱してきた当のマスメディアが、「住民の意思を尊重しなければ・・・」などと、「かたくなな態度」の民主党を批判する有様なのである。ブログ論壇でも、公務員や公共事業なんてどんどん減らせという論調で小泉政権を熱烈に支持してきたような人が、今更ながら訳知り顔で「私たちは無駄で食っている」などと言っている*1。正直なところ、腹が立ってくる。

要するに、仮想敵が「土建業界」などと漠然としている状態の時は「無駄」の大合唱が起こるのだが、具体的な当事者が目に見えるようになり、彼らが深刻な顔で大変さを訴える姿が出てくるようになると、一転して同情的になってしまうのである*2。マスメディアでは散々批判されてきた公共事業政治が、現実政治で根強く続いてきた理由も、こうした世論の意識構造によっても説明することができる。

本当なら、当事者にとって「無駄」と思えるような予算なんて基本的にないから削減が難しいこと、結局のところ「私たちは無駄で食っている」面が大きいなどということは、普通の大人の想像力で理解できなければいけない話だろう*3。こういう当たり前の想像力を妨げているのは、「無駄遣いをして俺たちの生活を悪くしている連中がどこかにいるに違いない」という、おそらくは90年代以降の長期不況と「構造改革」を通じて醸成された、日本社会に広く蔓延している被害者意識であるように思われる。

*1:http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20091205

*2:公務員バッシングも結局のところ、メディア上で発言の機会がほとんどないために「顔が見えない」という要素が大きい

*3:そもそも社会保障制度それ自体が巨大な「無駄」である。社会保障が経済的効用を促進する要素はあるだろうし、また両者をつなげていく論理や知恵は絶対に不可欠だが、社会保障それ自体は経済的効用ぬきでも維持されるべきものである