信用できない経済論議

 自分は「量的金融緩和」という言葉だけで目が点になってしまうほどの経済音痴だが、それでも経済について語っている人が信用できるかどうかという基準がないわけではない。例えば、以下のような物言いが目立つ人は、基本的に信用しないことにしている。


(1)経済競争を国家間競争として語る
 例えば外国で好調な企業を取り上げた後に、「日本もこれに負けてはいけない」「政府もこういう産業を積極的に支援すべきだ」という「国益」の話につなげて語る人がいる。しかし普通に考えれば当たり前のことだが、トヨタのライバルはルノーヒュンダイであってもフランスや韓国ではない。世界を代表する企業の本社が多く日本にあることと、日本の国家の財政が良好で国民が豊かであることとは全く同じことではない。もちろんある程度の関係はあるにしても、企業の利益と国益とは慎重に分けて考えなければいけない。なお、ビジネス書レベルだと国家財政を企業経営目線から語る人が少なくないのだが、これは非常に危険なことなので徹底して避ける必要がある。*1



(2)「もう○○の時代ではない」という宿命論に陥る
 たとえば、「経済のグローバル化の下ではデフレは必然だから産業の付加価値を高めていく以外に方法はない」といった議論を振り回して、現実における劣悪な低賃金を事実上放置(先送り)することを正当化するような人が少なからずいる。しかし「経済のグローバル化」や「デフレ」が絶対に制御できない、などと考える必要はどこにもないはずだろう。「改革」とか「イノベーション」とかを声高に語る人に限って、政治経済の構造を人為では変更不能な宿命として受け止める傾向がある。


(3)「既得権」が問題の原因となっている
 「既得権層」が自ら既得権を手放さないことが問題の原因だというのは、どう考えてみても支離滅裂な議論であるのだが、国民のなかにあるルサンチマンを代弁しているところがあってなかなか消えることがない。それにしても「既得権」を批判する人が、果たして自分には批判されるべき既得権がないのか、ということをまったく反省もしようとしないのは驚くべきことである。


(4)「○○では当たり前(常識)」で説得しようとする
 こういう物言いを乱用する人は、単にハッタリをかますのが上手いだけの(実際はよく知らない)人か、とくに日本人の中にある「『みんな』に合わせないと不安」という意識につけ込んでいる人だと思ったほうがよい。これは良識的な経済学者にもしばしば見られるので注意してほしいのだが、「当たり前」「常識」で素人を説得しようとするのは、経済の専門家による権威主義でしかないと思う。


 もちろん自分自身を含めて、上記の四つを完全に回避して経済を語ることは難しいかもしれないのだが、マスメディアで声の大きい「経済の専門家」ほど、この四つが殊更目立っている印象がある。

*1:「・・・・・・「社長目線の経済政策」というのはまずいんですね。いちばん典型的な話としては、これは阪大の小野善康先生ですけれども、国民はリストラできないと。例えば企業が立ち直るための一つの方法というのは、それが長期的にいいかどうかは別として、リストラなわけなんですけれども、日本国において日本国民をリストラすることはできないんですね。ですからシステムに対するアプローチのしかた、必然的に変わらなければならない。クルーグマンなんかはもう一歩進んでいて、経営者に経済政策をやらせると絶対失敗すると。」http://diamond.jp/series/collabo/10004/?page=4