専門知の振りをした世間知

 「専門知」と「世間知」の対立は、近代社会の宿痾とでもいうべきものである*1。特に現代社会においては、学問の専門分化(タコツボ化)が進み、専門家の議論がより高度で難解になる一方で、専門家に対する社会的威信や影響力が傾向的に低下している。その結果として、世間知の存在感が相対的に強まっている印象がある。

 この現代的な難問に対して専門家は、以下の二つの態度で対応しているように思われる。

1)人々を丁寧に説得することを断念し、世間知に「ただ乗り」にして自論に説得力をもたせようとする。たとえば、家計の比喩で国家財政を語ることなど*2

2)世間知が間違っている、ということを専門知の立場からひたすら言い続ける。たとえば、モノが安くなっても経済全体が停滞するだけであると強調することなど。

 もちろん、より良心的なのは2)の立場の人だが、世間知にどっぷりつかっている大多数の人は、専門知の人の議論に接する機会がほとんどない。テレビなど、より大衆的なメディアであればあるほど、どうしても世間知を直接的に代弁したものになりがちであり*3、そこに出てくる自称専門家も、1)のタイプの人が多数派である。そして痺れを切らした専門家が世間知に対して見下したような言い方で批判し、そのことが世間をいっそう遠ざけているという不幸な現象も見られる。

 さらに専門家にとって大きな障害になっているのが、専門知と世間知の中間にいる「現場を知っている」人である。たとえば、経済を語る経営者や投資家、軍事・外交を語る元自衛官といった人たちである。こういう人たちの語る経済論や外交論は、議論の水準自体は事実上は世間知の延長線上でしかない。しかし、彼らには「現場を知っている」という経験に由来する自信があり、またそのこと自体が一般の素人に対する大きな説得力の源になっている。ビジネス書を書けば爆発的に売れるし、テレビに出演する機会にも恵まれており、メディアでの影響力は専門家に比べて圧倒的である。こうした、「専門知の振りをした世間知」は社会科学の分野全般に蔓延しているが、とくに経済と軍事・外交、海外地域研究などの分野で顕著であるように思われる。

 しかし、こうした「専門知の振りをした世間知」に対抗するためには、専門知をひたすら言い続けるという戦略では不十分である。むしろ、世間知のリアリティから出発して専門知を構成するという手法が必要になる。たとえば経済学者は、「物が安くなって喜んでちゃいけない」と頭ごなしに言うのではなく、生活が苦しくなっているという人々の実感から出発した上で、その苦しさがどのような因果関係で構成されているのかを、経済学的に説明できなければならない。世間知の常識を専門知でひっくり返すこと自体に快楽を見出しているような専門家が少なくないが、それは一部の「頭のいい人」に知的優越感を与えることはあっても、広範な人々の納得感を獲得することは断じてない。

*1:ここでは抽象的な言い方になるが、外部観察のための知識を専門知、内部観察に基づく知識を世間知と呼んでおく。

*2:この手の語りで一番ひどいのは税金の問題だろう。「消費税が上がると消費が落ち込むとか」とか、「税金が増えると働く気がなくなる」といった世間知を動員する形で、財界が求めるような、富裕層や投資家を優遇する税制改革が正当化されてきた。日本の世論の大多数はいわゆる「新自由主義」を支持したことは一度もなく、あくまで増税を財の分配の手段ではなく「上から押し付けられる理不尽な負担」としてしか理解していない世間知が間接的に後押ししたものに過ぎない。

*3:特に「有権者はよくわかっている」などと言って持ち上げる人がよくいるが、視聴者はこういう物言いが実のところ有権者を心底馬鹿にしたものであることにいい加減気づかなければならない。