どうも経済学とは相性が悪い

「株主主権」「株主至上主義」の正体 ― 47thの備忘録
http://d.hatena.ne.jp/ny47th/20100107/1262875882


まあ、そういうわけで真面目に書こうと思うと、やっぱり大変な分量になりそうなんで、はしょったりなんだりしていてぐだぐだしてきましたが、私が言いたいのは、こういうことということで。


・「株主主権」とか「株主至上主義」というのは、それを攻撃するためにする仮想敵国であり、実際には極端な意味でのそういうものは存在しないし、米国も含めてそういう制度にはなっていない。


・現在、日米の解釈論として受け入れられている「取締役ないし経営陣の第一義的な目的は株主利益最大化である」ということが意味する範囲は、残余コントロール権の問題であり、限定された範囲のものである。


・また、「株主利益最大化原則」はともかく株主は偉いとかいう教義的な発想から生まれているのではなく、従業員や他の者に残余コントロール権を与える議論も踏まえ、そうした論者との議論を経つつ、それらの議論に堪えつつ、それでも実際に採り得る制度の中では最善のものとして採択されているものである。


・そうした理論的なバックボーンに対して、理論面あるいは適切な実証データを用いた議論は生産的だが、存在しない教義的な仮想敵国をつくりあげて、それのおかしさを論難するだけの議論は不毛なのでやめませんか


ということです。

・・・まあ、何かやっぱり書き終わって見てみると、分かる人はそうだよねということで分かるし、これを分かりたくない人には伝わらないかもなと思いつつ、まあ、こんなところで、今日は勘弁してください。


 議論そのものは、「コーポレート・ファイナンス」なんて言葉だけでたじろいでしまう経済音痴の自分でも一応納得はできる。しかし自分は、こういう議論の仕方は根本的なところで受け付けないのである。

 「市場原理主義」とか「株主至上主義」とか空疎な仮想敵が蔓延する背景には、言うまでもなく、過当競争の中の賃金低下や長時間労働に基づく悲惨な現実がある。少なくともそういう言葉を使っている人たちの関心はそこにある。そういう問題を一切スルーして、「株主至上主義」なんて言葉を使う連中は経済がわかっていない馬鹿だ、みたいな批判は、それ自体は正論だとしても、どこか根本的なところで間違ってはいないだろうか。

 一素人として、経済学には人並み以上の敬意を払っているつもりだが、やはりなんか乗れないのは、貧困や雇用をめぐる悲惨な現実への憂慮や憤りへの表明なしに、いきなり「経済がわかっていない馬鹿」への批判から始まってしまうことである。貧困や雇用をめぐる悲惨な現実への憂慮や憤りのなかで、「株主至上主義」批判が適切なものではない、と言っているのなら理解できる。しかしなぜかそうならないで、いきなり経済学的な正論にいってしまうので、その先の議論が真剣に読めなくなってしまうのである。

 すべてではないけど、経済学の一般書はだいたいそういう書き方になっている印象がある。そうした書き方が受け入れられないのは経済学がわかってないからだ、あるいはわかろうとしないからだ、と言われるのかもしれない。そうなのかもしれないが、だとすると自分は(少なくとも日本の)経済学とは相性が悪いとしか言いようがない。