古典的な自由主義と「新自由主義」の違い

 「新自由主義」というのは、ある種の知識人にとっては究極の仮想敵になっているのだが、この概念があまりに融通無碍に使われすぎているという印象は否めない。そこではここでは、自分の頭の整理のために、「新自由主義」が古典的な自由主義とどう違うのかを、一瞥しておきたい*1

 19世紀西欧の古典的な自由主義は、一言で言うと自生的な秩序を行政の介入や革命家たちによる破壊から守ることを「自由」と考えるものである。医療や福祉はもちろんのこと、教育ですら民間に完全に任せるべきものであり、富裕層の財産には1円たりとも税金かかるべきではないと考える。むしろ、遺産がそっくりそのまま子孫に相続されることこそが、「自由」の証である。性別役割分業などの伝統的規範も、それが自生的に形成されてきたことが認められる限り、それを革命家などの手から守っていくことこそが「自由」を意味する。

 それに対して、20世紀後半以降の「新自由主義」は、地位や階層の流動性を高めていくことこそが「自由」を意味する。そのために、普通教育制度の役割を積極的に認め、相続税などにも高い税金をかけたりすることで、格差や身分が固定化されないようにする。そのための国家・行政の介入はむしろ積極的に肯定される。伝統的な道徳・規範も、流動性を阻害するものとしておおむね批判・解体の対象になる。古典的な自由主義では完全に否定される国家の再分配活動も、「新自由主義」においては流動性を高めるという意味において必要不可欠なものになる。
 
 このように古典的な自由主義と「新自由主義」は原理上は対極的なものであるが、古典的自由主義者のハイエクが「新自由主義」の元祖と言われているように、またサッチャリズムにも象徴されるように、歴史的に見ると両者は対立するよりも奇妙な共存関係を取り結ぶことが少なくなかった。フリードマンのような、文字通りの「新自由主義者」というのは、少なくとも政治のレベルではほとんど稀である。

 ブッシュJrも、彼自身は古典的な自由主義者に分類できる人物であるし、日本で「構造改革」を主導したのが戦前のオールド・リベラリストの系譜に連なる世襲政治家であったというのも、こうした事態を象徴するものと言えるだろう。「新自由主義」は分配否定という意味で理解されることが多いが、それは「新自由主義」それ自体の論理に発するというよりも、こうした奇妙な共存の政治的帰結として理解したほうが適切である*2

 

*1:ちなみにここで言う「新自由主義」とは、世間的に「新自由主義」と呼ばれるような政策や思想を総称してそう呼んでいるのであって、ほかに適切な括りがないでそう便宜的に呼んでいるに過ぎない。「新自由主義者」と名乗る人が実際にそれほどいないというのは、ここでは重要な問題ではない。「保守主義者」と名乗っていなくても、その人の思想にとりあえず「保守」の括りを与えるのと同じことである。

*2:社民主義」については難しいが、流動性による「自由」の拡大という方向性は「新自由主義」と共有しており、当事者が考えている以上に原理上の違いはさほどないと思ったほうがいい。両者の見た目上の鋭い対立は、むしろ古典的な自由主義との政治的な距離に由来すると考えたほうがよいように思う。