何が適切な「成長戦略」なのか

 「成長戦略」という言葉にはどうしても違和感がある。経済学者の人には怒られるかもしれないが、やはり「成長」というそれ自体は批判不可能な言葉を突きつけられると、「成長」の阻害要因でしかないような無能力者や弱者を切り捨てていくようなイメージが、どうしてもつきまとってしまう。むしろ、「生活が楽になる」とか「豊かになる」といったものが経済政策の目標になるべきであって、「成長戦略」はその手段でしかない。しかし、経済政策の議論を聞いていると手段でしかないものが、しばしば究極的な目的であるかのように語られることが多い。

 いまマスメディア上で積極的に支持されるような「成長戦略」というのは、どうやら「成長産業」への積極的な投資と、規制緩和による企業育成の組み合わせである。旧来の自民党公共投資型の成長戦略はもちろん、民主党の「分配を通じた成長戦略」も、財源問題もあって「バラマキ」として全体的に批判的である(確かにその政治的な稚拙さや首尾一貫性のなさは批判されるべきであるが)。そして、インターネット上の経済論壇では熱狂的に支持されている「インフレターゲット」は、小馬鹿にされている雰囲気ですらある。

 しかし、「成長産業」への積極的な投資と、規制緩和による企業育成というのは、下手すると「デフレ不況の中でも業績を出している」産業や企業を優遇する、という以上のものではなくなる。そして、現在「頑張っている」企業の多くが、少ない顧客を懸命に奪い合う競争のなかで、労働環境が著しく「ブラック」になっていることは周知のことである。そう考えると、現在の日本における「成長産業」への投資と規制緩和の組み合わせというものは、まさに最悪の結果をもたらす可能性がある。それで「経済成長」がある程度実現されたとしても、それは生活そのものを楽にすることはないだろうし、またそのことは経済成長それ自体への否定的な世論を形成するだけでしかないだろう*1

 産業政策なんて意味がないとまでは断言できないが*2、「成長産業」のターゲットとして介護事業や農林業が入っているのはやはり違和感がある。というのは、介護事業は寝たきりの高齢者が存在する限り、経済的な効用に逆らってでも維持されるべきものであり、農林業がこれから飛躍的に成長するとはとても考えられないからだ。介護事業や農林業の意義や価値というものは、基本的には「成長戦略」の外部で与えられるべきである*3


追記

とにかくテレビなどで経済関係の報道を聞いていると、何でわざわざ「つらくなる」道に進もうとするのかが、よくわからないのである。「楽」で「余裕」のある社会がそんなに嫌いなんだろうか・・・。

*1:実際、「構造改革」の間違いの最たるものは、経済成長そのものへの否定的な世論を醸成したことにある。

*2:産業政策を批判する人の中には、「親方日の丸」だと甘えて堕落するからいかんという体育会系的な理屈の人も少なくないが、そういう理屈は何度聞いてもよくわからない。政治家と官僚に「成長産業」の的を絞るような役割を期待するべきではない、という意味ならよくわかる。

*3:たまに農林業なんて衰退産業なんだから放っておけばいいという類の議論を見かけるけど、世界中を見渡してもそんな乱暴なことをやっている国は(シンガポールのような都市国家を除けば)なく、むしろ大量の補助金投入や高い関税によって手厚い保護政策を採っている国が大部分である。日本から田園風景がなくなっても構わない、などとまで割り切って考えている人はまさかいないだろうし、農業が職業の選択肢の一つとしてあり続けることが基本的に好ましいことを否定する人もいないだろう。