「停滞容認論」について

今朝の読売新聞の「思潮」に、「経済成長」や「GDP」で幸福が測れる時代ではない、という趣旨のことが書かれてあった。

個人的にも、「経済成長」を声高に言い募る人は、はっきり言って好きになれない*1。いわゆる「停滞容認論」は、内容的には凡庸なところはあるが、「成長」と言われてもかえってしんどくなるという時代状況が要求しているものであり、経済成長と幸福感が一致しないというのも、それ自体は厳然たる事実である。ただ「停滞容認論」といっても一様ではない。「停滞容認論」を構成しているのは、大きく言って以下の三つの層だろうと思われる。

第一には、「ワーキングプア」「フリーター」などの低所得層・貧困層(とその周辺の活動家たち)である。彼らは、「成長」の名のもとに社会的に排除されて、一方的に「自己責任」を押し付けられてきたという思いを持っている。政権与党や財界・エコノミストが「成長」を呼号し、また実際に「経済成長」していた時代に「働き方がきつくなった」「貧しくなった」という強固な実感があるから、「停滞容認論」に傾くのは至極当然と言えるだろう。

第二には、定年退職して老後を暮らしていけるだけの財産はそこそこある、という人たちである。この層は「経済成長」による直接的な恩恵が少ないのだから、「停滞容認論」に傾むくのは当然であり、また「成長」によってインフレなどが起これば、かえって資産が目減りしてしまう*2。さらに、この層が人口が多いというだけではなく、選挙の投票率が高く、テレビの主要な視聴者層であり*3、新聞などの世論調査でも回答率が一般的に高いため、利害関心が必要以上に政治で強く反映されすぎている傾向がある。

第三には、これは個人的に強く思うことだが、「不況のなかで業績を出している」ビジネスエリート層(とその周辺のジャーナリスト・エコノミスト)である。もちろん、彼らは口では「経済成長」の重要性を強調する。しかし、どんなに厳しい環境でも創意工夫によって成果を出すことは可能であるとか、あるいはそういう厳しい環境でこそ新しい産業が発展するのだとか、そういう言い方をやたらに好むところがある。だから、デフレや需要不足といった、経済成長の根本的な足かせになっている環境については、そもそもあまり問題だと思っていない。要するに、国民全体の生活水準が上昇することよりも、「不況の中のサバイバル術」を好むため、結果として「停滞容認論」に与してしまうのである。

もちろん、以上の三つの層の利害関心は、本来は共有できるところがないくらい異なっているが、ニュース番組を漫然と見ていると、「派遣切り」の報道があったと思ったら、「これ以上物価が上がったら生活が・・・」という(実際はそこまで詰まってないであろう)主婦のインタビューが出てきて、そして最後に「デフレ不況でも頑張っている企業」のレポートというパターンが多い。これらが相互に矛盾・対立している可能性については、報道している側には頭の片隅にも上ってないようである。野蛮な「経済成長論」よりも「停滞容認論」のほうに与したいという気持ちは強いが、現在の「停滞容認論」はどう見てもあまり健全なものとは言えない。

*1:企業や業界の「成長」と一国の「経済成長」を混同して語る人はさらに最悪である。

*2:メディア上の露出度が高い経済評論家の1人が、「これからもデフレは続くのから、無理な投資はしないほうがいい、預金しておけば資産は事実上増えるから」などと「アドバイス」していた。

*3:一昔前は高齢者が「観る番組がない」と嘆いていたものだが、今は若者が観る番組がなくなってしまった。