民意が反映される政治

 「民意が反映される政治」というマスコミの常套句は反吐が出るほど嫌いであるが、自らの不安や不満が政治にまったく代表されていないという疎外感を抱えている人が多いことは確かであろう。この疎外感の内容を探っていくと、以下の二つにまとめることができるだろう。 
 第一に、職場や地域など、一次的な水準で所属している集団や団体のなかで「民主主義」が非常に弱くなっていることである。職場では労働組合が衰退しただけではなく、働き方の流動性が高まったことで、特に中小企業を中心に職場内のコミュニケーションが著しく弱くなっている。さらに農村だけではなく郊外住宅地などでも「限界集落」が登場し、さらに個々の家屋もセキュリティなどの問題で閉鎖的になっている傾向があるなど、少なくとも今の日本に地域レベルの「民主主義」が活発だとは言いがたい。そして、長らく自民党の支持基盤であった地方の農村や商店街も地盤沈下は著しく、民主党政権になって完全に政治的な代表者を失っている状態である。

 第二に、「民意」の偏在である。最近の政治やメディアの支配的意見を見ると、団塊世代を中心とした高齢世代の旧中間層に偏っていることは明らかであるように思われる。人口学的に分厚いというだけではなく、選挙の投票率世論調査の回答率なども相対的に高くなっている。テレビ番組や消費の場面においても、高齢層を意識したコンテンツやサービスが非常に多くなっている。90年代末から2000年代にかけての一時期、少なくない若い世代が保守ナショナリズムに流れたのは、こうした既存の政党政治やメディアからの疎外感があったと解釈することができる。

 では大阪の橋下知事など、現在相対的に支持の高い政治家は、従来の政治が掬い取れなかった「民意」を代表しているのだろうか。必ずしもそうではない、というのが個人的な見解である。橋下を例にとれば、そもそも彼はテレビという高齢者層が最大の顧客であるテレビで知名度を得た人物であり、彼の主張している「改革」に対しても既存のメディアは(とりわけ高齢層が見る確率が高い時間帯であるワイドショーでは)概ね好意的である。橋下を若い世代の政治意識を代表する存在のように見るのは、おそらく間違っていると考えている。

 むしろ、すでに政治的な代表性を確保していて、激しい変化を好まないはずの高齢世代の旧中間層が橋下のようなラディカルな現状否定の改革派を熱心に支持し、階層的な利害においては明らかに近いはずの公務員などをバッシングしているという、矛盾した事態にあると理解したほうがよい。この解釈は難しいが、彼らのなかにある「総中流社会」への強いノスタルジーが、依然として「中流」を享受している(ように見える)層へのルサンチマンを生み出しているのかもしれない。外からは「勝ち逃げ」しているように見られがちな高齢世代の旧中間層だが、将来不安や閉塞感を抱えているという点では、若い世代と何ら変わりはないと言えるだろう*1

*1:自分の子供が不安定な働き方をしているというのも、彼らの不安感の大きな原因のひとつである。だから、教育や雇用など「人生前半の社会保障」の充実は高齢層の将来不安を取り除くことでもあることに政治家は早く気づくべきであろう。