政府嫌悪とベーシックインカム

ベーシック・インカムに賛成?反対? TBSラジオ「アクセス」文字起こし Part.4(最終回)

http://d.hatena.ne.jp/benitomoro33/20100129/p1


(萱野)

先ほど、労働を通じて人々は社会参加をするんだという話を白石さんがしていましたが、そこに近いものがあって、社会的な統合というもの、あるいは人々が社会に参加するということに関して、労働って重要なファクターになると思うんです。そこで、働いたからこそお金が貰える、そのお金で根源とか承認だとか誇りを得るというシステムは、やはりずっと存続すると思っていて、飯田さんはずっと経済成長が大事だということを仰っていますが、何故経済成長が大事かと言えば、例えば、お金を稼いで、親よりも良い生活ができる、それを自分自身が労働で頑張って、達成できるところに経済成長の意味がある。これは、仕事を通じた社会統合だと思うんです。BIというのは、そういったものを裏切ってしまうものだと思うんです。

もし、BIの財源が調達出来るんだったら、公共事業に使うべきだと思うんですよね。

(飯田)

社会に参加するという喜びを、必ずしも賃労働で得る必要はそれほど無いんじゃないかなと思っています。労働のインセンティブを削ぐほど、沢山お金をあげるのは反対で、働かなくてもいいほど上げると、萱野さんが仰るように社会の統合が難しくなる。僕が考えているものは、働いていてもちょっと苦しいという人に下駄を履かせるシステムであって、実際、5万円ではなかなか暮らしていけないと思うんですけどね。

(萱野)

飯田さんのお話でいくと、BIである必要は全く無いと思うんですよ。要するに、下駄を履かせる事が出来ればなんでもいいわけですよね。それだったら、やはり社会的に労働を与えるということが可能な公共事業のほうが良いんじゃないかと思うんですけれどね。財源の使い方として、いかに社会に参加出来て、尊厳を得ることが・・・

 個人的にベーシックインカム論者で共感するところは、従来の生活保護のように、「働く意欲」などによって分配を選別するような差別・排除への憤りに根ざしている場合である。逆にあまり共感できないのは、それが「政府嫌悪」みたいなものに発している場合である。政府が色々と市場や労働の問題に介入すると、経済の効率性が悪くなるだけではなく有形無形の「利権」が発生しがちなので、分配政策はなるべく政府の恣意的介入の余地がないほうがよいという意味で、ベーシックインカムに賛成する人たちである*1

 飯田氏は、どちらかというと後者の立場でベーシックインカムを肯定しているように思われる。だとすると、ベーシックインカム論には無条件では乗れないな、という感じがする。というのは、貧困者のような社会的な弱者の救済に関心を持つ人は、どこかで「大きな政府」に加担せざるを得ないからである。つまり、金もない、友達や知り合いもない、そもそも生きる意欲すらない、という人たちを野垂れ死にするのを肯定しないとしたら、どこかで政府による「指導」や「強制」が必要不可欠になる。政府がそのようなことをするのは本来好ましくないなどと思っているリバタリアンもいるだろうが、この1年の間に一人でも貧困者でも障害者でも、社会的に排除されていた弱者のために懸命に汗をかいた経験を持っているのか(また持っているとしてもそれを全国民に要求できるかどうか)を少し反省してみるべきだろう。

 萱野氏が(少なくとも飯田氏の)ベーシックインカム論に不信感を持っているのは、それが現在の日本に横たわっている社会的排除の問題に対して冷淡あるいは無神経であるように見えるからだろう。今までまともな職歴もなく、コミュニケーションも不得手で、親にも頼れないという人が5万円をポンと渡されても、それで何の問題が解決するのかという萱野氏の疑念は完全に同感である。公共事業が経済政策的に見て適切かどうかは異論があるだろうが、そもそも萱野氏の主要な関心が社会的な排除や差別の解消にあるのであれば、それは十分に理解可能である。

*1:ベーシックインカムの元祖であるフリードマンのように政府嫌悪をストレートに表現してくれればある種の爽快さがあるが、日本だとネチネチした官僚陰謀論や「既得権」批判になっていることが多い。