自己責任論をいかにして批判するか

■自己の責任ではどうしようもない事に対する自己責任
http://d.hatena.ne.jp/opemu/20100214/1266095538


今回のアフリカ関連の話題でもいくつか見かけましたが、社会的に不幸な境遇の人達に対して「社会や他人のせいにするな、努力しろ」という意見を時々見かけます。


その不幸な境遇が自ら招いた場合であれば、まだ理解の余地はあるのですが、家庭の事情やら病気やら、自分の責任ではどうしようもない事柄についてもその意見が主張される場合があって、それが僕にはどうも納得できません。不幸な境遇から抜け出すには、他人に期待するより自分が行動する方が確かに現実的なのでしょうが、でも社会や他人のせいにするなというのはおかしいのではないかと思います。社会や他人が悪ければ悪いと言えばいい。


 いわゆる「自己責任論」に対する批判は既に一巡していると思うのだが、「自分のことを棚に上げて社会のせいにするな」という言い方は、今でもメディア上でしばしば耳にすることがある。年長世代だけではなく、若者自身がこの言い方を積極的に使うことがしばしばある。個人的に、この言い方に抵抗感を覚えつつもうまく反論も出来ずにいたのだが、その抵抗感を少しだけ言葉にしてみたい。考えながら書いたため、ほとんど上手くはかけなかったが。

 そもそも現代における「社会」というのは、国家や市場、マスメディアなど個人を超えたシステムで成り立っているものである。そうしたシステムの問題を解決できるのは、政治家と官僚・専門家、あるいは財界など指導的な立場にいる人たちだけである。だから貧困という「社会問題」が語られるときに、個々人の「努力」のあり方を問題にするのは適切ではない。それは、貧困者がぎりぎりまで「努力」をしているのに報いられないことが「かわいそう」だからではない*1。貧困者個々人の努力を促しても、貧困という社会問題そのものは一つも解決しないにも関わらず、個々人の努力如何で解決するかのように語ることが誤りなのである。

 思うに、ここで言われている「社会」というのは「誰かほかの人たち」という以上のことを意味していない。日本で使われてきた言い方では「人さま」(あるいは「世間」)であり、要するに「人さまに迷惑をかけてはいけない」という倫理観の延長線上で、「自分のことを棚に上げて社会のせいにするな」という物言いが語られるわけである。つまりは、「社会」の問題は完全に個人を超えたものであり、個人に対するものとは全く別のアプローチと専門知識を必要としているにも関わらず、日本においては「社会」という言葉に対してどこか人格的なものが入り込み、結果として社会問題が「努力しない」「勤労意欲が低下した」人々が増えたことで引き起こされていると理解してしまうわけである*2

 ただ個人的には、「自己責任論」が全て間違いだとは思っていない。例えば、いわゆる「就職氷河期世代」から「自分はたまたま時代の巡りあわせが悪かっただけだ」という言い方をされると、それはちょっと違うのではないかと言いたくなることもある。そういう違和感を表明する限りにおいて、自己責任論者に共感する部分も全くないわけではない。

 しかし、「自己責任」を語る人に声を大にして言いたいのは、その人に向かって全身全霊をかけて「説教」した上で、いかにして仕事を得るのかの努力の方法を懇切丁寧に伝え、そして場合によっては仕事を紹介するといったような「責任」があることである*3。そうした責任感の全くかけた大の大人が、ワイドショーのコメンテーター席という安楽椅子から「社会のせいにするな」という言葉を投げつけ、そのうえ政治家と官僚の無能さを嘆いて、公共の電波で政治・社会について語る「特権」を有している自らの「社会的責任」については何一つ感じていない姿は、まさに人間性の崩壊としか言いようがないと思う。

*1:一般論として、貧困者がそれ以外の人よりも「努力が足りなかった」であろうことは、おそらく否定できない。

*2:高度成長期以前に、明白な犯罪者に対してすら「社会」の問題として語られる傾向があったことは、同じ理屈で説明することができる。つまり、そこでは「社会」を個人を拘束する大きな人格であるかのように語ることで、個人の責任を免罪する傾向があったからである。社会と個人の責任の配分はゼロか百かのいずれかしかなく、その間に適度な境界線を設定するという発想がないのである。

*3:そうした責任の重さから、自分はこのような(真の意味での)自己責任論を展開することが未だにできないでいる。