差別問題を語るときに重要なこと

差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある ― Whoso is not expressly included 
http://han.org/blog/2010/02/post-119.html


 差別を受けることのないマジョリティの地位に安住している人にとっては、差別などという重たい問題を目に見えるところに突きつけられるのは気持ちのいいものではないでしょう。そんな問題は考えたくない。みたくない。できれば逃げたい。そんな感情が、差別の存在を否定する態度にあらわれます。

 でも、マイノリティにとっては、差別は逃げられない日常です。のんきに「差別を見たくない」といって逃げられるマジョリティとは違って、逃げたくても、見たくなくても、考えたくなくても、否応なく突きつけられる日常です。マジョリティにとって差別はたんなる知識かもしれないけど、マイノリティにとってはリアルな現実です。

 悪意がなくとも差別は起こるし、差別が起これば被害者はさまざまな損害をこうむる。この単純な原理が、差別者=悪人のイメージに邪魔されてなかなか理解されない。差別だという訴えは、「私は傷ついている」という単純な主張であって、「オマエたちは悪人だ」と訴えているとはかぎらない。にもかかわらず、マイノリティの必死の訴えを、差別を見たくないというだけで「それは差別じゃない」と切り捨てる。自分も悪人の仲間だと思われたくないという理由で、差別反対運動のジャマをする。

 マイノリティが差別と懸命に闘って、ようやく必死の思いで傷口を見せて「差別だ」と声をあげたとき、いつでも逃げられる安全で優位な立場にいながら「最近、差別だと騒ぎすぎるやつが多い」などと批判するのは、タダ単に傲慢なだけでなく、二次的な差別とすらいえます。セカンド・レイプならぬセカンド差別。


差別問題を語るときに重要なことは、二つあると考えている。

一つには、差別問題を「在日」や「女性」といった、既成のカテゴリーに閉じ込めないことである。「男性日本国籍者」の間でも、様々な「差別」と呼びうるような現象が存在していることへの感性は、常に研ぎ澄ましておかなければならない。事実、差別的な言動をとる人自身のなかに、しばしば被害者感情のような、強い「マイノリティ」意識を感じることがしばしばある。アメリカの白人のなかで、貧困層のほうが黒人への差別意識が強いということはよく言われる話である。だから、差別的な言動をとる人は、それが社会的に「差別」とされていることを理解できていない「世間知らず」の素朴な人でなければ、何らかの根深い被害者意識を抱えているような人だと考えたほうよい。ナイーヴかもしれないが、人を不幸にするような差別的な言動をとるような人間に、真に幸福な人がいるわけがないと私は思っている。

 もう一つ、「差別」を一概に根拠のない偏見として切り捨てないことである。欧米で黒人やアラブ系に対する警察の監視が厳しいのは、凶悪犯罪やテロといった事件の犯人にそうしたカテゴリーに当てはまる人が多いという「実感」に由来している(もちろん統計的に否定されることはある)。そして、女性に対する差別がなかなか根深いのも、それが良くも悪くも、子供の頃に見た母親の姿から恋愛に至るまでの経験に支えられている場合が多いことにある。「ウチの母親はそんなの当たり前だった」とか、「いや女性も実は喜んでいる場合が多い」とか、女性に対する差別が実体験によって正当化されてしまう。だから差別問題を語るときは、そうした差別を正当化する経験を構成している、「構造」の問題にまで目配りをしておく必要がある。

 世の反差別言説は、カテゴリー化した上で根拠のない偏見と一刀両断するようなものが圧倒的に多いが、それはどちらかというと新しい差別を生む類のものであると考えている。