政治的なビジョンの喪失

 この10年来の経済停滞の根本的な原因が、デフレとセーフティネットの脆弱さに起因していることは、ほぼ全ての人が指摘している。

 つまり、物価の下落が貯蓄へのインセンティブを過剰に高めていると同時に、雇用の縮小と賃金低下を招いている。そして、教育費や住宅費などの生活コストが高いことによる将来不安によって、余分な消費を控えるようになっている。年金生活の高齢者が人口的に増え、その子供の世代の雇用と所得が依然不安定であることによって、消費を抑制する傾向がますます強まっている。

 さらに、この10年の「規制緩和」による、消費サービス産業を中心として少ない顧客を奪い合うための過当競争が悲惨な労働環境を招いている。こうした環境で働く労働者は、デフレの圧力に苦しめられているだけではなく、雇用のセーフティネットが脆弱なので、こうした先の見えない仕事にでもすがりつかなければ生活できない。当然ながら、こうした労働者の消費や投資が活発であるはずがない。

 これは、新聞の経済欄を斜め読みすれば誰もが理解できる話である。だとすれば、金融政策によるデフレ解消と、増税によるセーフティネットの構築が、既に国民的な合意として成立していなければおかしいことになる。しかし、その解決の手段である金融政策や増税政策に対する議論で大きく躓いている。「デフレスパイラルの解消を」の話の後に、それとは別次元の「成長産業の育成」が語られ、「医療の財源不足」の話の後に「官僚の無駄遣い」が語られるという有様である。結果として、かつての公共事業政策や「構造改革」と、似たり寄ったりの経済政策しかでてこない。

 手段の水準で躓いているのは、社会をどのようにしたいのかの「目的」について、政治家も国民も途方に暮れている状態であるからに他ならない。「官僚政治の打破」や「無駄遣いの一掃」という「手段」に属する問題に全力を追求するような政治手法が、「わかりやすい」「ビジョンがはっきりしている」などと言われているが、個人的にはビジョンの喪失現象そのものとしか思えない。