石原都知事の理解できるところ

石原都知事「銅メダルで狂喜する、こんな馬鹿な国ない」

2010年2月26日7時30分
http://www.asahi.com/national/update/0226/TKY201002250536.html


 「銅(メダル)を取って狂喜する、こんな馬鹿な国はないよ」。東京都の石原慎太郎知事は25日、バンクーバー五輪の日本選手の活躍に対する国内の反応について、報道陣にこう述べた。


 同日あった東京マラソン(28日開催)の関連式典のあいさつでも同五輪に触れ、「国家という重いものを背負わない人間が速く走れるわけがない、高く跳べるわけない。いい成績を出せるわけがない」と話した。

 この石原都知事の主張で理解できるところがあるとしたら、負けた選手に対して妙に同情的な態度をとりたがる、多くの人たちに対する反発である。

 自分は日本のメダル数が何個だろうとどうでもいいという人間だが、負けた人間に対して「よく頑張った」と声をかけるのは、人間としての大人のマナーだとしても、そこに何か偽善じみたものを感じるという感覚はわからないではない。スポーツマンであれば、負けて悔しくないはずがないし、悔しいと思う気持ちがなければ、もはやスポーツマンの資格はない。だとすれば、むしろ「この程度で満足していいのか」という突き放した言い方で接したほうが、その選手に対する最大限の「礼儀」ではないかというのは、そんなに間違った考え方ではないと思う。サッカー解説のセルジオ越後氏も、よく日本代表に対してそのような突き放し方をする*1

 「国家を背負う気持ちがなければ・・・」という言い方が批判されているが、現実に選手は国家を背負わされているわけだし、それがモチベーションとなっている選手だって少なくない。私がこの言い方に違和感を覚えるとしたら、それはオリンピックそのものに特に強い関心がないので、表現が少し大袈裟に聞こえるためである。だから、選手自身が語る「日の丸を背負って・・・」という言葉にも少なからず違和感がある。もし、日本のメダル数に熱心にこだわる一方で、同時に石原都知事の物言いにも反発を感じている人がいるとしたら、それは偽善としかいいようがないと思う。

 ただし断わっておくと、石原都知事の物言いが許されるのは、あくまで勝ち負けが全てのスポーツの世界の話だからである。彼の問題は、このテンションを外交や経済といった領域にまで持ちこんでしまうことにある。たとえば、「中国や北朝鮮にしてやられて悔しいと思わなければ・・・」「貧困からはい上がろうという気持ちがなければ・・・」などといったものだ。「国際競争力」を煽る政治家やエコノミストが典型的だが、こうした思考様式は石原よりも言葉遣いが少しばかり丁寧になっているだけで、様々な場面で広く見られるように思う。

*1:確かにセルジオ越後氏のような愛情は石原にはあまり感じないが。