コミュニケーション競争社会

まじめな話はできるのに世間話ができない――社会から離脱してしまう人々の実態

http://diamond.jp/series/hikikomori/10010/?page=3


――職場で、上司と対立したり、人間関係の中で孤立したりして、上手く適応できなくなってしまうケースが多いようですね


「例えば、ある男性は、まじめな話はできても、世間話ができない。ふつうは、世間話ができて、まじめな話のほうが苦手なのに、逆なんですね。コミュニケーションをどのようにとればいいのか、と悩んでいました。自分の存在が恥ずかしい。石橋を叩いても渡らないような受け身的な人生を送ってきたと言うのです。コミュニケーションをとれないのも、最初は忙しいからだと思っているのですが、よく考えてみると、相手が悪いのではなく、自分に自信がなかった。上司にちょっと確認すれば済む話なんですね」


――世間話ができるかどうかというのも、必要なスキルになるのでしょうか?


「世間話は、自分から話題を提供して、相手に興味を持たせることで、コミュニケ―ショーンをとっている。相手のニーズを理解して話すのは、人間関係の駆け引き。そういう観点からいうと、高度なテクニックなんですね。ただ、何となく苦手な人はたくさんいます」


 よく言われていることかもしれないが、コミュニケーション能力が社会的に強く要請される社会になっている背景には、情報産業やサービス産業の比重が高まっているという、社会経済的な要因がある。こうした産業では、一人当たりの生産性に格差が付きやすい上に、一握りの生産性の高い人材に仕事が集中する傾向があるので、収入や社会的な地位における「格差」というものが発生しやすい。

 そして情報技術の高度化によって事務作業の効率化・単純化が進み、一週間もあれば習得できるような単純労働が増え、労働力の流動性が高まった。それによって、職場における個々人の連帯感は弱まり、かつては「阿吽の呼吸」で済んでいた部分も多かった職場のコミュニケーションも、常にその場の「空気」を読みながら進めないといけないものになった。

 こうした社会の環境の変化に対して、「コミュニケーションスキルを磨け」というメッセージが、1990年代から頻繁に語られてきた。しかし、コミュニケーション能力を意識的な努力で身に付けることは非常に難しい。挨拶や言葉遣いという程度の問題はクリアできても、その場の会話の「空気が読める」とか、常に人をひきつけるような楽しい話ができるとかは、生まれ育った環境や親のDNAとしか言いようのない部分があるからである。

そして、コミュニケーション能力に恵まれた人は、人付き合いの機会や経験もそれだけ多いので、特に意識的に努力をしなくとも、日々の生活体験の中でコミュニケーション能力が自然に鍛えられていく。ところが、その逆の場合になると、人付き合いの機会や経験の少ないことが、ますますコミュニケーションを不得手するという悪循環に陥り、対人関係に対する劣等感を蓄積させていくことになる。こうして、コミュニケーション能力が高いか低いかによって、別の世界の住人であるかのような「格差社会」が成立してしまう。

 日本でコミュニケーションスキルが殊更に過剰になっているのは、文化的な問題もあるかもしれないが、供給側の過剰によるデフレ不況という経済的な問題がやはり大きいように思われる。つまり、少ない顧客を奪い合うために、もはや商品とサービスそれ自体の魅力による競争だけでは限界が生じ、営業や接客におけるコミュニケーションの水準での激しい競争が繰り広げられるようなっているのである。「お客様」など、20年前まではあきらかに不自然で過剰と思われるような敬語が、ビジネスの世界で一般化・日常化しているのがその例である。

 結果として、特に学生時代は試験で点数を取ることでなんとか学校社会に適応していた、コミュニケーション能力において劣等意識をもった不器用な若者は、就職した後に過剰なコミュニケーションスキルの要求に絶望感に陥り、さらには働くことそのものに対しても及び腰になってしまう。学校生活の「コミュニケーション競争」のなかで脱落して「ひきこもり」になってしまった人はなおさらであろう。

 コミュニケーション競争の過剰は、生産性の向上と経済成長にとってさほど意味がないだけではなく、個々人の精神衛生上にとっても非常にストレスフルな環境を作り出し、「格差社会」の背景にもなっている。経済政策の担当者や企業家たちは、こうした不毛な競争を打破するための手段を講じるべきであると考える。