規制緩和論者の悪平等主義

 労働規制緩和という場合、高付加価値労働者、単純労働者、中高年正社員を分けて論じる必要がある。

派遣労働者やフリーター・パート労働者向けの規制強化策をもって、経済にマイナスだと批判する人がいるが、それは高付加価値労働者と単純労働者を混同していることからくる誤解である。コンビニやファミレスの店長を激しい競争に投げ込んだところで、接客をより丁寧するとか、人件費を減らすとか、そういうレベルの創意工夫しか余地はない。日本経済の生産性の向上にさほど寄与しないだけではなく、徒に労働者を疲弊させて働く気力そのものを喪失させ、デフレの遠因にもなっているという意味で、むしろ経済にとってマイナスなものでしかなくなっている。

そして日本では能力の高い高付加価値労働者のほうが、新卒で大企業に就職し、リスクの低い安定した地位を享受している傾向が確かにある。「流動化せよ」と呼号する人は、この水準の労働者が「能力を腐らせている」ことに歯がゆさを感じているのだろう。それは理解できないわけではないが、問題はこの水準のリアリティを単純労働者にまで適応して、「規制強化は経済を失速させる」などと言ってしまうことにある。結果として、過労や貧困の問題の現状に憤る良心的な人ほど、「規制緩和」がすべての問題の根源であるかのような議論を採用せざるを得なくなるわけである。

さらに日本に特有の問題は、年功序列を前提としている中高年正社員層である。この層は、流動化すれば即失業であり、所得だけではなく社会の居場所をも失ってしまう。これは森永卓郎も言っていたことだが、流動性の乏しい「会社人間」としての訓練を長期間にわたって施してきたのに、いきなり生産性が低いという理由で流動化すれば、単に自殺者が増えるだけである(事実、90年代後半以降における50代以上の自殺の急増を招いてきた)。この中高年正社員層に対してルサンチマンをぎらつかせて攻撃する経済人がネット論壇で大きな顔をしているが、湯浅誠氏などが繰り返し述べているように、公的な失業補償が弱く、教育費や住宅費に莫大なお金のかかる日本では、高齢正社員が必死で地位にしがみつくのは当然のことである。敵の存在を無意味に巨大化・単純化して攻撃するという規制緩和論者の論法は、かつての左翼の遣り口と瓜二つと言ってよい。

日本では、高付加価値労働者、単純労働者、中高年労働者という三つの層を分けて議論すべきである。そして、労働規制緩和に意味があるのは、あくまで高付加価値労働者だけであり、むしろ残りの二つにはセーフティネットの強化で対応しなければならない。しかし、規制緩和論者ほど三つの層を分けて論じたがらない傾向があり、つくづく日本というのは「悪平等主義」の社会だという感じである。