国家の干渉が嫌いな人たち

 私が漫画やアニメ、ゲームに対して全く無関心・無理解であるということもあるのだろうが、「非実在青少年」の問題に関する議論を聞いてもさっぱりわからないのは、「国家権力の強制」に対する過敏なまでの恐れである。規制はやりすぎじゃないかというのは、一応理解はできるし賛成なのだが、大上段に「国家権力の強制」を語られるとやはり抵抗感を覚える。

 経済規制緩和論者の人たちもそうで、彼らにとって日本は官僚による規制だらけで、民間企業の自由が何もない社会であるかのように語るが、何度聞いてもさっぱり理解できない。だったら何で「官僚政治」に対する暴露趣味的な批判が、民間のマスメディアで連日のように流れているのだろうか。日本が「官僚支配」の社会であるというのであれば、そうした報道自体が困難でなければおかしいだろう。

 とくに「国家権力の強制」を攻撃する人たちが嫌いなのは、「強制」を必要している人が社会的弱者であるという現実を全く理解していないからである。たとえば、生活保護申請どころか病院にも近隣にも助けを求めず「孤独死」していくような人が実際にいる。私たちの社会がそうした人を見捨てるのを良しとしないのであれば、どこかで国家・行政による「強制」の手が入らなければならない。日本のように、家族の境界線を越えるとインフォーマルな助け合いが消滅してしまう社会では特にそうである。

 私が「ベーシックインカム」に乗れないのも、それは社会的弱者を救う道ではないと考えるからである。すべてではないが、社会保障や再分配の問題を真面目に考えたことのない(特に経済学系の)人たちが、ベーシックイカンムに飛びついてしまっている傾向が強い。実際、ベーシックイカンム論者には、リベラル左派にせよ経済自由主義者にせよ、国家の恣意的な干渉そのものを嫌っているという人がとても多い。

 今の日本で「国家権力の強制」がまったく問題ないというつもりはないし、国家による恣意的な干渉は可能な限りないほうが望ましいことを否定するわけではない。しかし、国家による恣意的な干渉が適度にある社会のほうが、まったくない社会よりもはるかに「自由」だというのが私の考えである。重要なのは、そうした干渉への批判が開かれているか、多くの人が参加可能な権利や場が与えられているか否かである。干渉そのものを廃棄すべきだというのは、かつての共産主義思想がそうであったように、全体主義と表裏一体であることを肝に銘じるべきである。