良質の保守派がいなくなった

 時々左派の人たちから、「良質の保守派がいなくなった」と嘆かれることが多いが、これは半分くらいしか正しくないと思う。

例えば、村上泰亮高坂正堯は、冷戦時代は「保守派」として括られていたが、彼らの議論は現在読んでも特に「保守的」というほどのものではない。福田恒存は、確かに左派論壇に激しく噛みついていたから「保守的」と言えるとは思うが、その思想内容だけを取り出すと、愛国心や伝統の重要性をやかましく言っていたわけでは必ずしもなく、現在イメージされるような「保守派」とは相当の開きがある。

 要するに、ジャーナリズムで左翼が圧倒的に強い時代においては、村上や高坂のような社会主義戦後民主主義思想に批判的であるというだけの現実派の知識人が、愛国や伝統を声高に言い連ねる「保守派」と同じ論壇を共有せざるを得ないような状況が存在していたわけである。簡単に言うと、「良質の保守派」は現在でも広く存在しているのだが、今のいわゆる「保守論壇誌」のなかに少なくなったという意味でしかないのである。そうした時代の論壇状況を、左派が今なって懐かしんでいるというのも、少々滑稽な感じがする。