いつの間にか和解が困難に

 「経済学者は市場原理に任せればすべてば上手くいくかのような単純な人間観を振り回している」という、政治学者や社会学者による経済学批判と、「ほとんどの経済学はあくまで学問の手続き上単純化されたモデルを構築しているだけで、そういう十年一日の無意味な道徳的批判は聞きあきた」という経済学者の反批判が、半世紀ぐらいずっと平行線のまま繰り返されているような気がする。

  どちらかと言えば経済学者のほうが正論であるとは思うが、私は両方の言い分ともそれぞれもっともなところがあり、どちらかが一方的に正しいとは言えないと思っている。「十年一日」の官僚批判が、官僚組織それ自体が生み出しているところがあるのと同じように、「十年一日」の経済学批判も、経済学自体が再生産している部分があると考えるべきだろう。

 問題は、市場システムとその外部との関係とメカニズムを明らかにしようとする政治学者・社会学者と、市場システムの内部を徹底して突き詰めて考える経済学者との棲み分けがいま一つうまくいっていないところにある。その最たるものが、おそらく経済学の守備範囲の境界線上にある、社会保障の分野である。経済学者が、半世紀以上の歴史の中で積み上げてきた社会保障制度を一日でぶち壊すような「改革案」を無邪気に提示してきたりする一方で、それに対して社会保障の専門家がまさに「十年一日」の道徳的な経済学批判で応酬してしまう。

 政治学者・社会学者が「新自由主義」「市場原理主義」への批判から書き出すのと同様に、経済学者は他の分野の学者や政治家の「経済音痴」ぶりを苦々しく批判することから書きはじめる。両方とも普通に面白く読める、という人もいるかもしれないが、私などは両者をどう辻褄合わせて読めばいいのか、頭を悩ませてしまう。

 もともと、「福祉国家」の思想は主流派経済学の内部から出てきたもののはずであり、実際共闘の歴史もあったはずなのだが、いつの間にか(日本だけが?)和解が困難になってしまっているように思われる。