価値観の対立と言うしかない

 今は「フレクシキュリティ」の議論が周知なので、そういう誤解は少なくなっているが、それでも福祉国家が経済のグローバル化や労働規制緩和と矛盾するかのような議論が、依然として散見される。

 説明するまでもないが、労働市場の健全な流動化を達成しようとすれば、企業間・産業間の労働移動がよりスムーズになるような、職業訓練・職業紹介が今まで以上に必要になる。また企業の生存競争が激しくなるということは、企業外部での公的なセーフティネットの必要性が高まることを意味する。かつてのGMのように、一企業が社員の福利厚生に責任をもっているような仕組みでは、衰退産業や不採算企業であっても、労働者が懸命にしがみついてしまう。

 国際的な人の移動という観点からいっても、どの国に移住しても医療保険や失業給付、労災などの社会保障が整備されているという条件にあるほうが、より活発化を期待できる。そうでなければ、グローバルな人の移動はあくまで一部の富裕層と極貧層という、19世紀的なものにとどまらざるを得ない。

 もちろん、労働市場規制緩和福祉国家が常に親和的だというわけではないが、相反する必然性は全くない。相反するとしたら、それは経済の活力が「いざとなっても大丈夫」という安心感から生まれるのか、それとも「ぼやぼやしていると生き残れない」という危機感のなかから生まれるのかという人間観の対立、あるいはどちらのほうが社会的により好ましいのかという、価値観の対立と言うしかない。

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 ちなみに、相変わらず消費税に対して、消費が冷え込むとか、逆進的だとかいった、木を見て森を見ずの批判が多いのだけど、こういう細かなテクニックの話ばかりが焦点になるのは、例えば「北欧型の福祉国家を目指す」というビジョンが共有されていないからである。全体がどちらに進むかがわかっていないので、目先の小さな損得感情や「税金の無駄遣い」の話ばかりで盛り上がってしまうわけである。

 菅直人にビジョンなんかないという人もいるだろうし、その通りかもしれないけど*1、私の実感では「ビジョンがない」と批判する人が明確なビジョンを持っていたためしがない。

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 とは言え、やはり巷の増税論の9分9厘は「ギリシアの二の舞だけは」を枕詞にする財政再建主義者なので、多くの良心的な人が、増税論そのものに批判的な目を向けてしまうのは仕方ないとは思う。世論の増税論支持も、生活の安心を獲得するためというより、「財政危機なんだからみんな我慢しなきゃ」という、全体主義的な空気によるところが大きい。だから子供手当を「バラマキ」と批判する人と、増税論者が同じであることが少なくなかったり(むしろ一般的)する。

 持続可能な経済成長・社会保障を実現するためには、特に日本では圧倒的に弱い、若年者・現役世代のセーフティネットを分厚くすることが先決であり、そのための増税こそが必要だという、自分のような立場の増税論者はほぼ皆無だ。「ギリシアの二の舞だけは」の大合唱を聞いていると、増税論者でいいのか自信がなくなってくる。 

*1:実際、「第三の道」というのが微妙である。イギリスではベヴァリッジサッチャリズムの対立(ケインズハイエクの対立?)の経験のなかで、「第三の道」があったわけで、福祉国家を自覚的に選択したこともなければ、新自由主義を支持したおぼえもない日本国民にとっては、「第三の道」と言われても何のことやらピンとこないだろう。