当面は「大きな政府」を目指すしかない

 「大きな政府」「小さな政府」について語る人のなかに、相変わらず政府の規制や指導が強いか弱いかという、致命的な誤解が多い。政府の再分配が量的に多い、あるいは公共部門で働く労働者が多いということが「大きな政府」だとすれば、経済規制緩和とは全く矛盾しないどころか、むしろその条件ですらある。

 具体的に言えば、日本では失業問題が起こり始めると、企業がそのまま雇用を抱える(政府がそのための助成金を出す)か、そして退職金を上乗せするという方法をとってきた。政府が失業給付や職業訓練を分厚くするといった、雇用に対する再分配政策を施してこなかったことが、労働市場規制緩和を大きく妨げ、個々の家族や企業の負担感を高めていることは明らかである。

 近代化論的に言えば、市場のメカニズムが社会のなかに浸透していくにしたがって、家族・地域・宗教によるインフォーマルな福祉が掘り崩されれば、社会保障における政府の役割は強まらざるを得ないし、そして程度の差はあれ、それがこの100年の先進諸国の歴史だった。アメリカ、カナダ、オーストラリアのような、NPOやボランティアが日本よりもはるかに盛んな「小さな政府」と呼ばれる国ですら、公務員数は日本よりはるかに多い。公務員が少ないままでいるのは、まだ市場経済そのものが未熟でインフォーマルな福祉を当てに出来るという、後発近代化の国でしかない。

 日本では政府による規制が指導が強いことに対するそれ自体はまっとうな批判が、何故かそのまま人員削減の論理になっている。 繰り返すように、福祉の負担を民間企業・家族・個人に委ねていることで起こっている弊害を直視するのなら、日本は当面は「大きな政府」を目指すしかないと思う。