日本ではもう不可能なのか

 「郵政解散選挙」以来、いかに「既得権益層」を歯切れよく攻撃しているかが、政権と政党の支持率に直結しているようになっている。最近の政治家は、冗談ひとつ言わず、生真面目な顔つきで「無駄を徹底的に削減して国民の皆様に納得していただく」などと、過剰敬語で自分たちがいかに身を切っているかをアピールするのに懸命になっている。そして実際、そういう政治家が支持されるようになっている。「財政出動で景気を底上げすべきだ」などと言おうものなら、「貴様、国家財政の危機的状況を知らないのか!」などと、ぶん殴られそうな雰囲気である。

 既得権批判そのものが政治的な争点になってしまうのは、国民の間に政治的な疎外感が蔓延してる証拠である。これは、個人化された生活様式を自明としている若い世代以上に、過去に故郷や会社で濃密な人間関係を生き、学生運動など少なからず「声をあげた」経験を持っている高齢世代のほうが、そうした不満や苛立ちを強く抱いているように思われる。国民新党などが郵政票を露骨に動員しようとする様子が報道されていたが、これは他の多くの人々にも自らの職場や地域で似たような風景があった時代はよかったのだろうが、そうした風景が失われてしまっている今は、国民の間の政治的な疎外感をいっそう強め、激しい反発を招くものでしかなくなっている。

 今回の参院選でも、もっとも歯切れよく攻撃的に既得権批判を展開した政党が躍進することになった。今から考えるとだが、小泉政権の時には、まだ冗談を言ったり茶化したりするような余裕が少しはあったと思われるのだが、今はそうした余裕がほとんど失われているように感じる。周囲も、財政や税制などの専門的な問題について、妙に(というか無意味に)深刻に考えるようになっている。そして、少しでも深刻に考えているように見えない政治家がいると、そうした態度に対してやたらに厳しい目を向けるようになっている。政策の内容以前の問題として、自らの感じている不満や危機感を共有してくれないこと自体に、憤っているといえるだろう。

 評価は分かれるとは言え、かつて田中角栄の時代には、「豊かな社会をつくる」「国民の生活を楽にする」ことを、伸びやかに語る政治が厳然と存在していた。こうした政治を取り戻すことは、日本ではもう不可能なのだろうか。