「かわいそう」という感情を抑えきれない

「不明100歳超」拡大、把握は困難? ずさん? 
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/423861/


 役所が「存命」としながら、実は長期にわたって所在不明となっている100歳以上の高齢者が全国で相次いで確認されている。東京都で113歳の女性の所在不明、111歳の男性の死亡が明らかになったのに続き3日、東京都荒川区静岡県熱海市などでも同様の事態が明らかになった。行政はなぜ、事態を早期に把握できなかったのか−。長寿社会とはいいながら、高齢者の周囲には核家族化や地域コミュニティーの崩壊など、悲しい現実が取り巻いている。


 100歳を超える高齢者の所在の多くが「行方不明」であり、家族・親族がそのことを隠していた(あるいは無関心でいた)、という事実が次々と明るみになっている。日本では、高齢者の面倒をみる第一義的な責任は家族である、という規範が非常に強いので、こうした事件に対して、少なからずショックを受けている人が多いかもしれない。

 しかし、むしろ銘記しておかなければならないのは、その裏返しとして、家族がそうした責任を負うことへの忌避感情も、かなり強いものがあることである。高齢者自身も、「子供や兄弟に迷惑をかけるわけには・・・」と、ギリギリまで我慢して親族に助けを求めないパターンが非常に多い。連日報道される介護自殺、介護殺人などは、その最悪の帰結である。また親族の側も、親や兄弟の窮状を薄々察していながら、あえて考えないようにして自分の負担にならないように懸命に身を潜めていることが少なくない。

 家族の心情を忖度するに、単に「面倒くさい」ということだったのだろうと思う。死んだときに市役所に届けるのを忘れてそのままにしてきたとか、行方不明になってしまったけど大げさになるのも嫌なので黙っておいたとか、その程度のものなんだろうと思う。もともと仲が良くなかったし、いまさら所在が判明してもかえって迷惑なだけだし、結局自分たちが面倒を見なければいけなくなるので嫌だし、死んでいたとしても近所とも付き合いがなく金もないので葬式が出しにくいし、・・・・というのが本音だろう。

 特に「面倒くさい」最大のものは、「自分の親のことなのに、何でそんないいかげんにしておいたんだ、人間としてありえないじゃないか」という、周囲から確実に受けるであろう非難である。とくに、親の介護のために自分の仕事と人生を犠牲にしてきたという人が、周りにはいくらでもいる。そういう人を前にして、行方不明の親を「面倒くさい」から放置しておいたことなど、どんな言い訳であれ通用するはずがない。結果として、市役所や民生委員に嘘八百を並べたてることで、自分の立場をかろうじて維持するしかなくなるわけである。

 高齢の親を放ったらしにしてきて嘘八百を並べたててきた人たちに対して、自分はどうしても「かわいそう」という感情を抑えきれない。甘いと言われるかもしれないが、そういう人は、家族に統合失調症認知症がいることを周囲に気兼ねなく話せる人が果たしてどれくらいいるのか、「普通の家族」をつくることに挫折してきた人たちが、どんなに周囲に肩身を狭い思いをして生きているのか、ということへの想像力を少しでもいいから働かせて欲しいと思う。