不明高齢者問題の背景

「でたらめ長寿国」韓国メディア報道
2010年8月5日(木)08:00
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/snk20100805109.html


 【ソウル=水沼啓子】日本で100歳以上の所在不明が相次いでいる問題について、韓国メディアは「でたらめ長寿国」などと相次いで報じている。

 KBSテレビは3日夜8時の番組で所在不明のニュースを伝え、「日本がでたらめな長寿国に映る衝撃的なことが起こった」と報じた。SBSテレビも3日夜8時のニュースで、「死亡者や失踪(しっそう)者まで生きていることになっている、でたらめな記録が相次いで見つかり、日本の長寿大国の神話が崩れている」と伝えた。

 4日付の韓国各紙も一斉にこのニュースを伝えた。中央日報は「高齢者天国 日本のイメージに泥を塗る」との見出しを掲げ、所在を確認できない理由について、「高齢者数が急増し、戸別訪問を通じて確認するのは事実上困難な状態だ」と指摘した。

 朝鮮日報も「事例はさまざまだ。犯罪のにおいがする場合もあり、人間関係が徐々に疎遠になっている日本の現代社会の特徴を表している場合もある」と分析している。

 この問題が発覚して最初に感じたのは、驚いたというよりは「ああ、なるほど・・・」という妙な納得感だった。親の死を隠して年金を不正受給という問題は、以前から断続的に発覚していたが、もっと多くてもいいはずだと感じていた。こういう問題が起こる背景について、思ったことを以下に簡単に記しておきたい。


1)日本の社会保障制度の中で年金が突出して充実している

 日本の社会保障制度は、年金や医療・介護など高齢者向けの福祉が中心で、教育・失業・住宅など「人生前半の社会保障」に関する福祉については、ようやく民主党政権になってから(そのやり方の稚拙さは否定しようがないが)手をつけはじめられたにすぎない。生活保護水準レベルの不安定で低賃金の仕事しか得られず、政府の分配に頼らないと生活が成り立たないという貧困層・低所得層にとって、老親の年金は「命綱」になっている以上、生活のためには嘘をついてでも年金を受給するしかない。断わっておくと「充実」というのは、教育や失業に比べてということであって、今の年金の給付水準自体が「充実」しているわけではない。


2)高齢者の面倒・介護は同居している家族に第一義的な責任があるという規範が強い

 親が行方不明になっても黙っているというケースが非常に多いが、それは「どうして必死になって探しに行かないのか?仮にも息子でしょう?」と言われるに決まっているからである。本音では、面倒な親がどっかに消えてくれて、そして介護の負担も背負わずにすんで、「助かった」という気持ちがあるのだが、そんな本音を語ることなど許されるはずもないし、自分の中にも罪悪感もある。周囲に、親を見捨てた非人間だと思われたくなければ、黙って隠し続けるしかない。

 家族規範が強いというのは、家族自身が親の介護に対して積極的だということではない。むしろ、日本の平均的な家族は、介護の負担を引き受けることを極度に恐れている。むしろそれは、みんな家族のなかで頑張って面倒をみているんだから「わがまま」を言うことは許されない、というきわめて消極的な理由でしかない。今回の問題で、家族のつながりを取り戻せみたいな言い方をする人もいるが、むしろ日本ではこういう家族の責任の重さが、事態を悪化させているケースがきわめて多いように思う。今回の問題と「介護心中」の問題は、表面的には対極だが、完全に背中合わせの問題と考えるべきである。


3)行政の権限と能力が弱すぎる

 今回の問題について、一部に行政の不作為が批判されているが、人員も予算も少ない日本の行政・自治体にはそんな権限も能力もありはしない(もちろん意欲もないだろうが)。不正年金受給者家族には強制的に踏み込めみたいな話があるが、官僚・公務員への不信感が頂点に達している今日、もし不正でなかった場合に大問題に発展することは明らかであり、現場の役人が二の足を踏んでしまうことは当たり前である*1

 そして、将来的にも公務員の大幅削減が確実である以上、この問題が根本的に解消されることはないだろう。民生委員の役割が再評価されているが、その成り手不足は全国的な問題になっているし、そしてその穴を行政と公務員で埋めることもできないわけである。この問題については、考えれば考えるほど悲観的な将来イメージしか湧いてこない。

(追記)

 新聞とかでは、行政が強制する前に家族と地域の連携を強化しろみたいな意見が語られているが、全く間違っている。これは、完全に行政権力の強化で対応すべき問題である。「プライベートな問題だから難しい」などと語る社会学者がいたが、公的な再分配給付に関する問題、特に現役世代の所得を定年後の高齢者に移転している年金の問題が、どう逆立ちしても「プライベート」なわけがないだろう。本人確認業務を「プライベート」の名のもとに拒否できるとしたら、再分配の根幹にある社会的な「信頼」の原理は崩壊してしまい、社会保障制度は一日たりとも成立できなくなる。

 社会学者や政治学者は「コミュニティの再建」みたいな話がやたらに好きなのだが*2、別にそれも否定はしないけれども、今回のような問題は基本的には行政権力の強化(強制力の付与と人員増)で対応する以外に方法はないと考える。もっとも、繰り返すように、それ自体がいま日本では極めて大変な困難を抱えているのだが。

 もちろん、「家の事情を知られたくない」「公になったら立場を失う」という人も少なくないだろうが、だからこそ個々の家族や人間に関心を持たず、平等かつ機械的に対応する行政の役割が重要になる。家族や地域の連携強化で対応などと言っていたら、それこそ親戚や近所に家の事情を知られたくない(からこそ懸命に隠してきた)という人にとって恐怖そのものでしかなく、ますます問題がこじれるだけである。

(さらに追記)

 よく、確認を拒否すれば自動的に年金給付を打ち切ればいい、という主張があるが、個人的には不賛成である。人間の基本的な生存に関する分配を打ち切ることは、可能な限り(真に死亡あるいは捜索不能が確認されるまでは)最後の手段にしておくべきだと考える。これは、健康保険の支払いを滞納しているからといって、ただちに保険証を無効にすべきではないのと同じ理由である。甘いと思われるかもしれないが、国民の基本的生存の維持は、あらゆる事情に優先すべき政府の責任である。

*1: 「ベーシックインカム」論のような、「小さな政府で手厚い分配」は思考実験としては十分にありだとしても、政策技術的にまず不可能であることは、この問題ひとつとっても明らかである。生死の確認のために、公務員が家族に強制的に踏み込むための権限と能力を与えることなしに、「ベーシックインカム」が可能なわけがない。

*2:福祉国家社会保障の専門家の話でも、「コミュニティ」の話に入ると途端に猛烈な睡魔に襲われてしまう。政治哲学の「コミュニタリアニズム」というものも、リベラリズム批判くらいまでは面白いのだが、ではなんで「コミュニティ」なのかという話になると、最初の3行で眠くなってしまう。