データと実感の間にあるもの

 前回の補足。

 前回のエントリの趣旨は、国際比較で公務員の数が多いとか少ないとか、給与水準が高いとか低いとか、そういう類の議論そのものに疑問を呈したことにある。むしろ問題関心は、そもそもデータとしては明白なまでの「小さな政府」なのに、どうして世論の実感としては「大きな政府」のように感じられるのかということにあった。いろいろと参考になるコメントをいただいて大変恐縮だけども、自分の根本的な問いはそういうところにはなかった。

 自分は、そもそもデータ以前に現実に起こっている問題から考えて、公共部門の労働者は今よりも必要なんじゃないかと考えているが、それを妨げているのは、とりもなおさず「大きすぎる政府」という世論の実感にある。この実感は、もともと(社会のことに何の関心もなかった時代の)自分のなかにも少なからずあったもので、だからこの実感そのものを説明する必要がどうしてもあると考える。

 データで世論の無知を一方的に批判するような議論は、どこかで戦略的に必要なのかもしれないが、個人的には非常に違和感がある。データと実感の間にあるものを説明するほうが、自分にとってははるかに重要である。

(追記)

 データと実感のズレが何かを考えるのが重要だというのは、社会学系の人には割合簡単に理解されるのだけど*1、経済学頭の人には1万回言っても「だから何?」的な反応で理解されないことがほとんどである。それどころか、データの重要性を否定しているかのような誤解まで受けてしまう。当たり前のことだが、データをめちゃくちゃ重視しているからこそ*2、実感とのズレをどうしても気にせざるを得ないわけである。

 データを構築する専門家である経済学者や統計学者が、データと実感とのズレを軽視してしまうのはわからないでもないが*3、ネット上でくだを巻いている(自分と似たような)程度の素人まで、そうした主張に同調するのは危険だと思う。というか、データを見せられて「そうか、今までの俺は馬鹿だった!」と簡単に「反省」できてしまう人は、個人的に信用ならない。むしろ厳然たるデータを見せられても、「今までの俺が勘違をしていたとして、だとするとそれはなんだったのか・・・」という「反省」こそが重要なのである。「治安の悪化」神話への批判が、その背後にある不安感への洞察へと向かわなければならないのと同様に、「多すぎる公務員」神話への批判も、その背後にある行政不信やルサンチマンなどへの洞察に向かわなければ何の意味もない。

(さらに追記)

 これもデータと実感のズレの問題か。

 高校野球最大の勘違い ― teruyastarはかく語りき
 http://d.hatena.ne.jp/teruyastar/20100810/1281453713


 送りバントが、データ的にさほど得点確率の高い攻めじゃないというのは、時々語られる話なのだが、百戦錬磨の「名監督」と言われる人ほど、送りバントを重視することも確かである。甲子園やプロ野球で優勝経験が何度もある「名監督」が、送りバント戦法に固執してその重要性を言挙げするのを、単に旧来の固定観念に縛られた頑迷固陋の故だと言えるのかどうか。やはり、何百試合とこなす経験のなかで、送りバント戦法の有効性を実感してきた、と考えるのが自然だろう。個人的には、送りバント戦法はさほど有効だとは思わないのだが、現場の人たちが固執している事実は重く受け止めるべきだと思う*4

*1:これは社会学という学問の由来の一つに統計学批判があることにも象徴される。

*2:もっとも、「社会学者」の多くは統計データ自体にあまり興味がなくて、頭が痛くなるのだが。最近、「社会学者」を名乗る人の主張がひどすぎることが目につくのだが、昔からあんなものだったのだろうか。

*3:いわゆる職業病なので。

*4:私見では、本当に点が入りやすいかどうかというより、点が入るためのシュミレーションがしやすく、組織的な采配がしやすい、ということが大きい気がする。たとえばバント戦法の場合、「四球で出塁→バントで二塁→ゴロでも三塁進塁→ワイルドピッチでも一点」というシュミレーションが立てやすいが、打て打て戦法だと、「四球で出塁→多分打てる→多分打てる・・・」で終わってしまう。もし打てなかった場合に、そこで採用可能な作戦・戦術が詰まってしまい、選手もどう戦ったらいいのか途方にくれてしまうこと、それを監督としては恐れているのではないかと思う。つまり送りバント戦法は、チームの組織力を維持あるいは高めたり、試合の空気を自分たちのペースに持ち込んだりといった、得点力以外の効用が大きいのではないか。