「新自由主義」について

 高橋洋一氏のつぶやき文章をたまたま見つけたので、これをネタに「新自由主義」について。

よく誤解されるけど新自由主義者って。私は、給付付き税額控除・所得税ベースで所得再分配最高税率上げ+相続税強化)を政策としてあげているから、これらをいうと、いわゆる「新自由主義者」といわれませんね。公務員改革でゴリゴリといわれるけど、キャリアの特権と総人件費カットだけだよ。
https://twitter.com/YoichiTakahashi/status/20942138210


 「新自由主義」とは定義の曖昧な、人文系の知識人による政治イデオロギー的な概念に過ぎないと感じている人は多いと思う。それは自分も同じで、だからなるべく使わないようにはしているつもりだが、それでも「新自由主義」と言う以外に表現しようのない政策や思想があることもまた確かだ。そこで、自分が「新自由主義」をどういう意味で使っているのかを、あらためて我流に定義しておきたい。

 「新自由主義」というのは、政府が教育や医療など国民の基本的な生存を保障する全面的な責任を負うという「ナショナル・ミニマム」が政治的なデフォルトになった状態を前提として、そのナショナル・ミニマムに関わる分野にも、可能な限り市場のメカニズムを導入すべきだと言う政策や思想を総称して言うものである。だから新自由主義においては、人間の生存を最終的に保障するのが政府であることは前提であり(「ベヴァリッジ報告」以降そういう世界になってしまっている現実があるので)、あくまでそのなかで市場の領域を最大限広げていくことを目指すものである。これは政府の社会政策そのものに否定的なリバタリアニズムはもちろん*1、そうした生存保障は伝統的な秩序や道徳の役割だと(暗黙裡にせよ)考える古典的な自由主義とも明確に異なるものである。

 この定義からすると、所得再分配を重視しているかどうかというのは、あくまで「新自由主義」にとって枝葉の問題に過ぎない。重要なのはナショナル・ミニマムに対するアクセス権を政府が平等に保障する体制を維持・強化すべきか、それともナショナル・ミニマムであっても可能な限り市場価格と支払い能力に応じて分配し、そこで生じるであろう不平等も積極的に引き受けるべきか、という点にある。だから高橋洋一氏も、自分の定義からすれば明確な「新自由主義者」である。国民の基本的な生存にかかわる分野でも、「特筆すべき理由のない限り」政府が介入する領域は小さいほど望ましい、と考えているからである。

 「新自由主義」的な政策や政治思想が存在し、その正否を世論に真正面から問うこと自体は、むしろ重要で必要なことである。問題は、前にも言ったことだが、高橋氏のような「新自由主義者」が世論に向けて自説を説得する際に、往々にして官僚や公務員の利権や既得権に対する批判を大々的に持ち出すことが多いことである。とくに高橋氏や氏がブレーンをつとめる政党は、ことあるごとに官僚・公務員の隠然たる権力の強さや人件費の高さを言挙げし、「自分たちは『大きすぎる政府』を少しばかり改善するだけにすぎない」という言い方で「小さな政府」論を正当化していることが多い。

 これが問題なのは、データを都合のいいように捻じ曲げているというだけではなくて、ナショナル・ミニマムにかかわる分野にまで市場に委ねるべきかどうかという、本来高橋氏たち「新自由主義者」が問うべき重要な論点を隠蔽していることにある*2。その結果として、ナショナル・ミニマムを「可能であれば民間企業と市場メカニズムに委ねるべき」とは必ずしも考えていない人までを、味方に引き込んでしまう。

 今から考えると、「民間でできることは民間に」という小泉政権の時代のほうが、こうした論点がもう少し表に出ていた記憶がある。今の「新自由主義」的な政治勢力は、おそらくこれを争点化すると世論の支持を失うことをよく理解しているので、もっぱら官僚・公務員批判に血なまこをあげ、潜在的に「大きな政府」「福祉国家」志向(とくに高齢層)の有権者までを政治的に取り込もうとしているわけである。政治はそれでも仕方がない気もするが(本当はそうあってはならないと考えるが)、ブレーンである学者・専門家には、こういう政治手法を少しはたしなめる役割を期待したいところである。

*1:もっとも最近のリバタリアンベーシック・インカムを緩く支持しているようだが。

*2:では左派の側はどうかと言えば、これも説教臭い「市場原理主義」批判や「コミュニティの復権」「循環型社会」論ばかりで、この論点をあまり問題にしていないように思う。