単純な所得再分配は反福祉国家的

ミネラルウォーターと保育園 鈴木亘

http://synodos.livedoor.biz/archives/1498293.html

 鈴木氏のような立論に対してよく感じる違和感の一つは、貧困者や身障者への対策の話になると、「それは別の対応をすればいい」「いくらでも保障の方法がある」という言い方になっていることが多いことである。

 これは福祉国家論でいう、政府の社会保障は市場で対応できない部分に限るという、「残余モデル」の考え方である。残余モデルの問題は単に所得再分配が弱いということではなくて、再分配を「本当に困っている人」「本当に働けない人」にのみ限定してしまうことである。そのため、福祉サービスが富裕層・中間層から低所得者への「慈悲」「恩恵」のような性格を強め、サービスを受けている人へのスティグマも強くなりがちである。つまり「生活保護のくせに高級車を乗り回している」的なバッシングである。そこでは、誰が「本当に困っている人」なのかということをめぐって政治的な対立が起きやすい。そして、貧困者や身障者が相対的に政治的なマイノリティである以上、往々にしてその「本当に困っている人」の境界線は下がり続けていく傾向がある。

 逆に「制度モデル」型の福祉国家では、すべての人が潜在的に「弱者」になる可能性があるという前提に立って、「弱者」を生み出さないようなセーフティネットを、所得の多寡にかかわらず全国民にあらかじめ張っておくという戦略をとる。つまり、重度の身障者を抱えている家族を、「かわいそうな家族」の問題にするのではなく、自分の家族も潜在的にそうなるという可能性を踏まえた上で、そのリスクを社会全体で共有するということである。社会保障の専門家の圧倒的多数はこの制度モデルを支持しているが、その理由の大きな部分は、貧困者や身障者を「かわいそうな弱者」のカテゴリーに閉じ込めることなく、社会的な包摂が可能になる点にあると考えられる。

 意外に思われるかもしれないが、福祉国家の始祖であるべヴァリッジも「均一拠出、均一給付」を基本原則にしていたように、福祉国家論者の多くは単純な所得再分配の方法を必ずしも支持していない。「低所得者に限定して分配すべき」という考え方はどちらかというと「異端」で*1、むしろ反福祉国家的な考え方であることは踏まえておくべきだと思う。

(追記)

 言い足りなかったので、以下の部分について。

いやいや、まだ問題が残っています。そうです。そもそも政治家が価格統制を言い出した低所得者対策をどうするかということです。

しかし、その答えも簡単で、もし、低所得者にミネラルウォーターを安く提供することが政策的に本当に必要であるならば、認可企業に公費補助金を投入するのではなく、直接、低所得者に水を購入するための補助金を渡せばよいのです。

低所得者が確実に水を購入することを担保するためには、ミネラルウォーター購入に充てることのできるクーポン券、つまり「水バウチャー」を政府が配ることがよいでしょう。

 鈴木氏のたとえ話にあえて乗っかっておくと、重要なのは「低所得者対策」なるものではなくて、水を市場価格で買うこともできないような低所得者を再生産しないように、雇用保障や社会保障の仕組みを整備することにある。さらに言えば、「低所得者対策」なるものをなるべく不要にする、つまり国民全員が「低所得者対策」ぬきに水を普通に買うことができるようになることを政策目標にしなければならない。鈴木氏の議論だと、水も買えないような「低所得者」をなるべく生み出さない、という社会政策を論じる際の基本が欠けているように思われる*2

*1:異端という意味で鈴木氏のような人は尊重されるべきであるが、その意味でももう少し説得的な議論を期待したい。嗜好品であるミネラルウォーターで保育行政の問題を論じる時点で、やはりアウトである。

*2:その基本をあえて批判しようとしているならともかく、どうも理解していないのではないかという疑念を禁じえない。