ベーシック・インカム論の堕落

 最近ベーシック・インカム(BI)の議論を目にすることが多くなったが、それ自体はいいことではあると思う一方で、びっくりするのは普通の「政策提言」として語る人が増え始めたことである。

 そもそも自分が知り始めた頃のBIの議論の主題は、「人は生きているというだけで無条件に分配を正当化できるか」という問題であり、「どうして働こうとしない連中にも俺たちの税金が」と反応する反対者を、どう説得するかの論理と言葉を粘り強く引き出そうとする思考実験のプロセスが、非常にエキサイティングだったことを記憶している。

 だから、この次元の問題に直面するはるか以前の現在の日本社会で、BIを真面目に「政策提言」している人を見ると、驚くというよりも憤りを感じる。本来BI論は、働く能力や意欲を奪われてしまった人たちを、「お荷物」や「負担」として扱わない社会をどう構築するか、という強い倫理観に支えられていたはずだったのだが、今の日本のBI論争では、お手軽な再分配政策として、しかも今すぐにでも可能であるかのような調子で語られている。

 しかも、今の社会保障制度は「利権」が生まれやすいだとか、政府が小さくて効率化できるとか、自分にとってはどうしてそれがBIを正当化するのかわからないような話の文脈でBI論が語られている。そこにあるのは、せいぜい単なる「政府嫌悪」や「既得権」へのルサンチマンであり、BI論の原点にあったはずの倫理的な問題意識が、きれいさっぱりなくなってしまっている。

 特に経済学系の人に、この手のBI論を振り回す人が少なくないが、再分配政策の具体的な内容については、専門外として社会保障の専門家に全面的に委ねるべきである*1。せいぜい、「あくまで経済学的立場ではBIの方向性が好ましいが・・・」くらいの言い方にとどめるべきだろう。*2

 いずれにしても、BIを無邪気に「政策提言」している人たちは、自分からすればBI論の堕落にしか思えない。「人が生きているというだけで無条件に分配が正当化できるか」という、おそらく一生かかっても完全には解けないであろう問題に向き合い続けることこそが、BI論との正しい付き合い方であると考える。

(追記)

 これを書こうと思った元ネタの経済学者のインタビュー記事には、「田舎に住むことはもはやぜいたくだと思って欲しい」という物言いがあって、さすがに愕然とした。

 インタビューとは言え、「ぜいたく」などという、主観的でしかない上に説教調の言葉を使っている時点で、経済学の自殺ではないだろうか。日本が豊かになって田舎でも生活に不便がなくなったことは、どこからどう見ても悪いことではないだろう。「今の若い連中は生まれた頃から豊かな生活をしてきたのに文句ばかり言ってぜいたくだ」という、年長者の物言いと何が違うのか。入居者が激減してインフラのコストが見合わなくなっている、古い郊外ニュータウンの居住者にも同じことを言うのだろうか。

 自分だったら、「地方を活性化して日本経済を強くしようという政治家がしばしばいるが、地方の再建と日本一国の経済成長はとりえあず切り離して考えるべき」という言い方にとどめるだろう。経済については緻密で説得的な議論をしている、経済学者の歴史・政治・社会に対する認識の杜撰さ・稚拙さには、ときどきがっかりさせられる。

*1:逆に社会保障の専門家は「もう右肩上がりの経済成長は無理だから・・・」云々みたいな話を安易にするべきではない。

*2:それにしても、常々経済政策では「現実的」「世界標準」を肝に銘じている経済学者が、再分配政策では世界のどこでも採用していない、「異端」の政策を平然と採用できる神経がよくわからない。