愚痴

 今の日本の政治が末期症状なのは、民主党政権自体というよりも、「頼りがある」とかないとか自体が問題になっていることである。この20年「頼りがある」という雰囲気を醸し出していた首相は、小泉純一郎ただ一人であるが、じゃあ小泉政治が良かったのかといえば、言うまでもなくそれはまた別問題だろう。「頼りがある」とかないとかなどというのは、自分にとっては本当にどうでもいい話というか、それは政治家を教育するシステムの欠如の問題として、あるいは単純に日本の有権者の、つまりわれわれ民度の関数として理解するしかないと思う。

繰り返すが、「頼りがない」という批判は、どこまでいっても非生産的な飲み屋の悪口でしかなく、せいぜい小泉元首相やどこかの知事のように、「頼りがある」かようなパフォーマンスばかりが上手な政治家を生み出すだけしかない。「頼りがない」という批判で、頼りがいのある政治家が生まれるわけでは全くない。小泉政権時代も、靖国参拝の問題を除けば、決して中国や北朝鮮に対して毅然とした態度をとっているわけではなかった。今の民主党が「頼りがない」大きな理由の一つは、長年の野党時代に自民党を攻撃する口調ばかりが鍛えられしまったことで、今になって同じ批判を受けるようなった時に、その対応が全くわからず、いかにも「頼りない」感じになってしまっていることである。自分もがっかりさせられることは少なくないが、しかしそんなことが懸命に批判すべきことなのかと言われると、やはりよくわからない。そういうことは批判したからといって、一朝一夕に直るものではない。

 「頼りがある」どうかばかりが政治の焦点になれば、当然ながら各政党も「頼りがある」ように見えるパフォーマンスに奔走するようになる。過去の民主党もそうである。どう考えても内容空疎な公務員削減・議員定数削減を各党が懸命に呼号し、そして財政再建主義的な主張が繰り返されるのも、こうした主張がいかにも「頼りがある」ように見えるからだろう。お互いの政治理念をもちより、政策について熟議するために政治家がいるはずであって、政治家が「頼りがある」かどうかなど、どうでもいいとしか思えない。