見ていて冷や汗が出てくる

仙谷氏「暴力装置」発言 謝罪・撤回したものの…社会主義夢見た過去、本質あらわに

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/101118/plc1011182236025-n1.htm


 「昔の左翼時代のDNAが、図らずも明らかになっちゃった」

 みんなの党渡辺喜美代表は18日、仙谷氏の発言について端的に指摘した。

 「暴力装置」はもともとドイツの社会学者のマックス・ウェーバーが警察や軍隊を指して用い「政治は暴力装置を独占する権力」などと表現した言葉だ。それをロシアの革命家、レーニンが「国家権力の本質は暴力装置」などと、暴力革命の理論付けに使用したため、全共闘運動華やかなりしころには、主に左翼用語として流通した。

 現在では、自衛隊を「暴力装置」といわれると違和感がある。だが、旧社会党出身で、東大時代は日韓基本条約反対デモに参加し、「フロント」と呼ばれる社会主義学生運動組織で活動していた仙谷氏にとっては、なじみ深い言葉なのだろう。

 今の日本で「暴力」といえば、その語感は「問答無用でぶん殴る」ということで、それ以上のそれ以下の意味も持っていないだろう。そういう意味のなかで生きている社会において、「暴力装置」という表現を国会という公の場で用いることが「政治的」に不適切であることは間違いない。そのうえで、失言の揚げ足取りに興じて国会を空転させている野党やマスコミは批判されるべきであるが。

 ウェーバーの用いた学術用語でしかない、と言っている人が少なからずいるのだが、その理解も眉唾である。というのは、ウェーバーは軍隊や警察といった「暴力装置」については、ほとんど何も論じていないからである。彼は国家を「正当な暴力行使の独占を要求する」ものとして定義したが、この定義のなかの彼の力点は「独占」であって「暴力」ではない。この定義で言っているのは、死刑による人殺しはよくて仇討ちによる人殺しがだめだ、ということを区別する権限(正当性)を独占的に持っている(あるいはそうした権限を追求する)のが国家ということであって、国家の根本的な要素が暴力であるということでは必ずしもない。いずれにしても、ウェーバーが「国家を暴力で定義した人」というのは、少なくともかなり偏った理解だとおもう*1

 マルクス主義の残響という解釈自体は多分間違っていないというか、ウェーバーは「暴力装置」という概念を、少なくとも理論的に重要な意味では使っていないはずなので。左翼にとって「装置」という言い方には、「資本家の支配の道具」という意味合いがあって、この文脈を意識している一般の学者は「装置」という言い方は慎重に避けているんじゃないだろうか。

 まあ、この問題自体はどうでもいいのだけど、ただみんな知ったかぶりがあまりにひどすぎるというか、自分も相当な知ったかなので反省しなきゃいけないな、と見ていて冷や汗が出てくる。

(追記)

 社会学者の方に言及されたので、少し応答させていただきます。 
 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101125/1290694764

 自分の理解では、ウェーバーの「国家」概念は「支配」一般ではなく、基本的に「合法的支配」にしか関わらない概念である。「合法的な独占」とか「人格と物理的手段の分離」といった定義からも、それは明らかである。ウェーバーは「官僚制」について膨大な文章を遺したが、それは官僚制が合法的的支配を貫徹する仕組みだからであり、それは事実上彼の国家論となっているというのが私の評価である。

 暴力装置への無関心が社会行為論に由来するというのは十分には理解できなかったが*2、そもそも彼の国家の定義からして「暴力」の概念が理論的にさほど重要ではない、と素直に理解したほうがいいように思う。ウェーバーの根本的関心は、あくまで国家の支配の正当性を基礎付けている文化、つまり「近代合理主義」の解明にあったのであり、彼が長生きして暴力装置に関する文章を遺したとしも、その「合理主義」化のプロセスにしか関心を示さなかっただろう。

 いずれにしても、ウェーバーの名前は本来は文民統制とかそういう話ででてくるべきで、「自衛隊暴力装置」などという文脈で出てくるべきではない。自分は、この表現は「社会科学」的にも不適切だと思っているのだが、どうなのだろうか*3

(こっそり書き直し)

 仙石官房長官による「自衛隊暴力装置」という発言が問題視されたが、これに対して「マックス・ヴェーバーによる社会科学の概念」という弁護論もあちこちから聞かれた。

 しかし、これは端的に間違いである。ヴェーバーが「暴力」という概念を用いたのは「国家」の定義であって、軍隊や警察の定義といった暴力組織の定義ではない。ヴェーバーは国家を「合法的に物理的な暴力を独占する」ものと定義したが、そこで強調されていたのは「合法的な独占」である。国家が宗教団体や村落共同体、身分・階層のなかで個別に行われている暴力的制裁を否定し、国防軍や警察という形で「独占」するというのが彼の議論の力点であって、意味内容的には「強制力」という言葉でもさほど支障がない。そもそも、ヴェーバーの政治社会学の大著『支配の社会学』にも軍隊や警察に関する話がほとんど登場していないように、彼は「暴力装置」そのものにはさほど関心を抱いてなかった。彼の関心はあくまで、国家が「暴力を合法的な独占」を可能にしている、近代合理主義の解明にあった。だから、ヴェーバーの定義が意味を持つ場面があるとしたら、徴兵制や死刑などの存廃問題であって、自衛隊が「暴力装置」であるかどうかという問題とは基本的に関係がない。

 ベンヤミンフーコードゥルーズといったところから暴力の話をする人もいるが、昔はちょっとかじったこともあったけど、個人的にはあまり生産的な感じがしなくて、というかその難解な語彙と格闘するだけの価値があるかどうかがいまだに理解できなくて、今は基本的に無視している。

*1:むしろ、「国家を官僚制から理解した」と要約するほうがより正確。

*2:その説明は他の社会学者一般にも当てはまらないといけないような気がするのだが、そういう理解でいいのだろうか。

*3:自衛隊暴力装置と定義すること自体は正しいと思うのだけど、それは社会科学的というより「見たそのまんま」の定義という気がする。せいぜい「社会科学っぽい言葉遣い」という程度だと思う。