政治家の言葉は軽くなったのか

  「失言」問題というと、一昔前は憲法問題や歴史問題に関わるものが多かった気がするが、そのときも正直「騒ぎすぎ」と思っていたが、すくなくとも日本という国家の価値とはどうあるべきかという、それなりに重いテーマに関わるものであったような気がする。今はそういう問題は比較的オープンな発言が可能になった一方で、「失言」問題というと、片言節句の言葉尻をとらえて騒ぎ立てるようなものばかりになっている。

 野党が与党政治家の片言節句をとらえて攻撃するのは、それも議会制民主主義における権力闘争の手法と言ってしまえばそれまでだが、不断は「政局よりも政策を」などと殊勝なことを言っている政治評論家まで、こうした政局以上の意味が全くない騒動に荷担し、「政治家の言葉が軽くなりましたねえ」などと、それこそ軽い調子で政治家を批判する始末なのには、本当に嫌になってくる。そもそも、政治家の言葉が軽くなったとしたら、批判する側の言葉も相当軽くなっている、つまり現に政治を担っている人たちを批判することへの緊張感や責任感を失っているから当然軽くなる、と普通に考えるべきだろう。自民党はついこの間まで政権にいたのに、その批判の言葉の「軽さ」たるや、以前の民主党より劣化している気がする。

 考えてみると、小泉元首相も決して「失言」の少ない政治家とは言えなかった。当時の閣僚のなかには、「社会問題としての貧困はない」などと言い切っていた人すらいたが、こういう現実社会への無知・無関心を暴露した真の意味での「大失言」も(「経済学者」を名乗っていた人だけになおさら)、その当時はさほど問題にされてなかった。上手く言えないが、「失言」をするかしないかではなく、「失言」に寛容な雰囲気をつくれるかどうか、というのがおそらく政治にとって根本的な問題なのだろう。

 菅政権が批判されるとしたら、「雇用」をあれだけ連呼し、そしてひと頃よりは経済状況が若干ましにはなっているのにも関わらず、雇用状況が一向に改善していないことだろう*1。ところが、そういう批判がほとんど聞かれない。大学生の就職難の報道が連日なされているが、「菅首相は『一に雇用、二に雇用、三に雇用』と言ったんじゃなかったのか」という批判は、驚くべきことにほとんど聞かれない。むしろ、現状では雇用の悪化を明らかに促進する公務員削減の不徹底を批判する声や、「贅沢を言わなければ仕事はいくらでもある」という、昔ながらの若者批判の声のほうが大きいくらいである。この問題で批判されない以上は、菅政権が今まで以上に雇用問題に真剣になってもらうのは、あまり期待できないと言ってよいだろう。

 考えてみれば、昔の自民党の首相は吉田茂から中曽根康弘まで、知識世界における左翼全盛の時代のなかで、自らの政権を維持するためには、政策で現実的な結果を出さなければならなかった。実際、それで左翼の理想論に打ち勝ってきたわけである。小泉政権負の遺産があるとすれば、格差・貧困を生み出したというよりも、政治家が政策で結果を出さなくても、「抵抗勢力をぶっ潰す」などと連呼していれば、政治的な支持を獲得できるという前例をつくってしまったことだろう。今の民主党も、そういう過去の悪しき「成功例」に学んでいる部分が多いように思う。政治家が政策の実績で評価されなくなっている以上、政治家の言葉が社会の現実から遊離して「軽く」なっていくのは当然の帰結であると思う。

*1:金融政策で改善すると言う人もいるが、アメリカがどうして改善していないのか、そしてインフレの韓国でも就職難なのはどうしてなのかについて、少しは説明を加えて欲しい。